金川千尋(27)社内改革

委員会作り事業育成
「毎日経済人賞」受け励みに

社長に就任してから会議のムダも省いていった。取締役会は月二回から一回に減らし、一回当たりの時間もほぼ半分にした。全社的に会議の時間は三分の一以下に短縮されたと思う。

重要事項を決める前には、案件ごとに豊富な専門知識をもった少数の役員、顧問、社員などを集め、私と具体的、かつ徹底的に議論する。会社に評論家はいらない。

新規事業を育成するために、私が委員長となつて「Z委員会」というプロジェクト・チームもつくった。研究所や工場、営業部円から委員を集めて十のテーマを運び、研究開発を進めた。

この中で成功したのが、半導体製造に使う感光性樹脂のフォトレジストだ。最後発だったが、あえて最先端のエキシマレーザー用の高解像品に挑戦した。1992年(平成4年)に研究開発を始めて98年に本格生産し、一時は世界シェアの約四割を押さえた。Z委員会が選んだ十テーマの成功率は現時点で二割、もう一つ伸びれば三割というところか。

ただ、事業化まで研究者に委ねたのは失敗だった。研究段階は任せていいのだが、事業化するには経営のセンスが不可欠だ。研究と事業化は、サナギとチョウほどの違いがある。こうした反省を踏まえ、2000年からは「ニューZ委員会」と改称し、テーマ設定や事業化についても私がより深く関与している。

このほか、合理化委員会や資金効率化委員会などをつくって様々な社内改革を実践し、今も続けている。改革の初期段階で励みになったのが、1993年の「毎日経済人賞」受賞である。毎日新聞社が創設した権威ある賞だ。

まだ最高益更新の連続記録が始まる前だったが、「国際的な視野に立って積極的な事業展開を推進。特に塩化ビニールでは、米国子会社の生産能力増強で世界シェアをトップに押し上げた」と評価してもらった。

贈呈式で「これで業績が悪くなったら、皆様にあわせる顔がございません」とあいさつした。会場からワーっと笑い声が上がったが、本心である。初めての賞でうれしかったし、寛の権威を辱めてはならないとの患いが、その後の好業績の原動力となった。

受賞パーティーでは、ダウ・ケミカル日本元社長のロバート・ベーカー氏、小坂善太郎氏とともに写真に収まった。ベーカー氏とは1969年に米マイアミでお会いし、ニカラグアの塩ビ合弁会社の原料をダウから調達することで合意した。以後、ダウと信越化学の取引は30年を超す歴史を刻んだ。マイアミではローストビーフやキューバ料理をごちそうになり、お付合いは今日まで続いている。

ベーカー氏は良きアメリ人の典型で、私の親友中の友だ。在日米国商工会議所頭も務め、日米の文化交流に貢献された。ゴルフの腕前はプロ級で、20年も続けながら百を切れず、嫌になってやめた私とは大違いである。

日本の真の理解者だったベーカー氏は外相を務められた小坂善太郎氏とも親しかった。創業家の嫡男である善太郎氏には取締役相談役になっていただた。役員会では「環境基本憲章」の発想を示され、今社はその理念を大切にしる。善太郎氏の小田切元社長への信頼は厚く、お二人で私の経営を支えてくださった。

(信越化学工業社長)

セレンディピティ【cerendipity】

偶然によって興味ある、あるいは勝ちある発見をする自然に備わった能力

金川千尋(20)合弁解消

社運かけ株買い取る
融資姿勢、日米の違い痛感

1973年(昭和48年)の第一次石油危機後、塩化ビニール樹脂の価格はうなぎ登りだったが、翌年半ばから反動で急落した。日の出の勢いだった米ロビンテックの経営も急速に悪化した。

74年10月に信越化学との合弁子会社であるシンテックが操業を開始したが、やがてロビンテックからシンテックヘの塩ビ代金支払いが滞り始めた。ロビンテックは自家用飛行機を二機も所有し、組織を肥大化させるなど放漫経営も目に付いた。そのツケが回ってきたのだろう。

資金の融資も頼んできたが「ウチは貸金業者じゃない」と断った。七五年になると、ロビンテックが信越化学にシンテック株五〇%の買い取りを求めてきた。そこで、信越化学の取締役になっていた私が交渉の責任者になった。

当初、ロビンテックが希望した売却金額は当社の購入希望額のほぼ倍に近く、交渉は難航した。まだM&A(企業の合併・買収)の経験がなかった私には未知の世界だったが、弁護士と公認会計士に一つ一つ確かめながら、粘り強く話し合いを続けた。

交渉中、コーペットCEOが突然立ち上がり、「我が社は今日の午後、信越化学の銀行口座に買収資金を頼り込む。交渉はこれで終ねりだ」と叫んだこともあった。一瞬何のことか分からなかったが、「シンテック株をそんなに安く評価するのなら、こちらが逆に買ってもいいぞ」という意味だったらしい。

交渉の駆け引きだが、私もそんなことでは動じない。ビジネスで世界中を歩き、修羅場をくぐり抜けてきたという自負がある。相手が米国企業であっても「アメリカが何だ。私の相手は世界だ」という思いがあった。

シンテック株の買い取り交渉は七六年に決着した。倍越化学の買収金額は1000万ドルで、円換算では約30億円。今見ると小さな金額のようだが、信越化学の当期利益は76年5月期決算で12億7000万円弱にすぎず、当時の我が社にとっては社運をかげた大型買収だった。

私が交渉をまとめられたのは小田切新太郎社長の支援があったからだ。ロビンテックとの交渉中、信越化学の取綿役会では「全額出資は危険だ」と反対する声が大勢だった。

「株式の半数は米大手化学メーカーのダウ・ケミカルなどに持ってもらうべきだ」といった意見が多かった。

平の取締役にすぎない私の経営能力など、ほとんど評価されていなかったと思う。副社長時代から私を覚ってくれていた小田切さんはこの時も私を信頼し、大きなリスクを引き受けてくださった。

シンテックが完全子会社になる時、運転資金を銀行から借りる必要があった。だが日本の銀行はどこも、親会社である信越化学の債務保証がなければ貸せないという。私は保証をつけるのに反対だった。信越化学の取締役会が再びガタガタするのが目に見えていたからである。

そのころテキサス・コマース銀行のベン・ラブCEOが来日し、小田切さんと私は東京・丸の内のパレスホテルで会った。ラブ氏は小田切さんと私をじっと見つめ「オダギリさんが社長だから信越化学の保証なしで貸しましょう」と言った。この言葉は決して忘れない。日本の銀行は土地などの担保や親会社の保証がないと融資しなかったが、ラブCEOは経営者の力を担保に融資を決断してくれた。

(信越化学工業社長)