R25時代 – 高田純次

俳優を志して自由劇場に入団したのが25歳。

「2~3人で組んだら、すぐにバンパン劇を作って、稽古場で即興で、みせるっていうのをずっとやらされたのよ」。

今なお切れ味鋭いアドリブの下地はこのころ作られた。

だが、2年も経たないうちに、見切りをつけて就職。

4年間、芝居から遠ざかった。

このサラリーマン生活で、200万円を貯金。

結果的にはのちに芝居の世界に戻る口実としての生活資金を稼ぐ場になった。5時から男の原型はここだね(笑)。

会社時代のあだ名はスーパーマンになれないヤツっていう意味の“パーマン”。

「意外とお調子ものでね(笑)、細かいことはなんでもやってたんだけど、全部が全部パーフェクトにいかない。中途半端なものばっかりだったから、パーマンになっちゃった。」

そこは少人数の会社。しかもほとんどが女性社員。

まさに高田純次の天下だった『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で、よくやってたのはリポーター役。

最初の3年間は何するか分からないまま、とりあえず現場に行かされていた・・・らしい。

「ロケスケジュールがタイトで、現場何時に集合っていう感じだったから、そこに着いてからリポーターのキャラクターを短時間で作ってた。」

厳しかったが、即興劇の経験を生かせる、まさに高田向きの番組だった。

「若いころは全然苦労したとは思ってないの。その時代はその時代で楽しく生きてたから。」

 

たかだ・じゅんじ – 高田純次

1947年1月21日、東京都生まれ。71年に自由劇場の舞台を観て俳優を志願し、入団。その後、イッセー尾形らと組んで自分たちの劇団を結成するも、半年であえなく解散。サラリーマン生活をはさんだのち、77年に東京乾電池に入団、再び劇団活動を始める。現在はテレビ、映画などで活躍中。主な出演作にドラマ『南くんの恋人』『東京大学物語』(テレビ朝日)、バラエティ『天才・たけしの元気が出るテレビI!』『クイズ世界はSHOWbyショーパイ!!』(日本テレビ)、『どうぶつ奇想天外!』(TBS)、『金子柱憲・高田純次ゴルフの王道』(テレビ東京)など多数。CMでも中外製薬「グロンサン強力内服液」、P&GJapan「ジョイ」は特に有名。現在、キリンビール“新・淡農シリーズ”のCMに坂口憲二、八嶋智人とともに出演中。

「25歳なんて、ペーペーだよ。ケツにはまだ蒙古斑が残ってるって」

売れるまで紆余曲折あった。軽いイメージがどうしても付きまとうせいか、このノリそのままに気楽に生きてきた感じがするが、芸能界という荒波は男がかる~く乗りこなせるほど甘くはなかった。それ以前に自称″芸能界一軽い笑いの男″は人生の波にも全然乗れてなかった。大学入試に失敗して、進んだのがデザイン学校。そこをなんとか卒業したあとは写真やポスター描きのアルバイトをしていた。そして24歳のとき、自由劇場の舞台『マクベス』を観て役者を志す。これが第1の転機。「たまたま知り合いに誘われて公演を観に行ったんだけど、それが面白くてね。そしたら、翌年の3月から研究生を募集するっていうんで、軽い気持ちで応募したら、受かっちゃった」

稽古時間は夕方6~9時。5時までアルバイトすれば金も稼げる。それくらいの感覚だった。だが、人生そう、うまくはいかない。あっけなく1年で劇団をクビになり、次に自由劇場で知り合ったイッセー尾形と劇団を結成するも、半年で解散。で、結局、芝居の才能に見切りをつけてサラリーマンに転職。これが第2の転機。「そのころ僕、今の女房ともう同棲してたのよ。なんとかして食っていかないといけないなと思ってね。それで資格取って宝石会社にデザイナーとしてうまく潜り込んだのよ。2月に入社したんだけど、決算ボーナス期とかで、2月3月の2カ月問で30万もくれたの。いい会社に入ったなと思ってさ」封歳の夏、年齢的にラストチャンスだと思った。

仕事は順調だった。上司のウケも良かった。小さな会社だったけど、儲かってたから好き放題やれてた。当然、舞台に対する未練は消えていた。勤め出して1年ほど過ぎたころに柄本明やベンガルが旗揚げした″東京乾電池″の第1回公演に誘われたが、断ったほどだ。「代わりにその公演を女房と観に行ったんだけど、それが大コケでね。二人で笑いながら帰ってきたの。″よかった、よかった。冗談じゃないよ、参加してたら俺は死んでたよ″って」

だが、それはひょんなところからやってきた。人生の歯車が少し動いた。「会社の夏休みに得意先の会社の受付嬢と飲んだのよ。そしたらそこで偶然、柄本とかベンガルに会っちゃってさ。しかもその店にはもう一人、昔の芝居仲間がいたんだよ。しかもそいつ文学座に入ってて、そこの演出家と一緒だった。こっちはおh姉ちゃんをなんとか口説こうとかさ、そんなのしか頭になかったから、落ち込んじゃったのよ」

ほどなくしてベンガルから電話があった。内容は″暮れの11月に第3回の公演をやるから、よかったら出ないか″。悩みに悩んで決意する。77年の夏、30歳、これが第3の転機。「ちょうど次の1月で31歳になるってときだったんだよね。だからどうしようかな~つて思ったんだけど、30歳越えるとなかなか舞台をやれるチャンスもないだろうと。だからこれが最後だと思って、会社辞めたんだよね」

辞表を出したのは9月25日。長女の1歳の誕生日の前日だった。当然、奥さんは激怒する。そりゃそうだ。「子供がいなかったら、当然別れてるっていう話だったんだよ。でもまだ1歳で小さいからしょうがなく一緒にいた、みたいな。まっ、今もしぶしぶ一緒にいるみたいなんですけど(笑)。ただね、会社生活4年で貯めた貯金が200万円あったの。マンションの頭金にしようと思ってたやつが。それがなかったらいくらなんでも決断しなかったね。子供もいたし、僕はいくら誘われても、30歳でもう年齢的にラストチャンスだと思っても、行かなかった」・漫才ブームっていうバスの最終便に強引に乗ったのよ。

だが、その蓄えも1年で底をついた。当然のようにまたアルバイトの生活へと逆戻りした。稽古のないときは昼間トラックの運転手を、稽古のあるときは夕方から朝5暗くらいまで肉体労働をやった。6時に家に帰って、11時くらいまで寝て、起きて12時の稽古に行く、そんな日々が続いた。「でね、公演が入ると1カ月半くらい稽古するのよ。しかもアイディアもいろいろ出さなくちゃいけないし。それはそれでキッくても楽しかったんだけど、とにかく寝る時間がなかったんだ。1日4時間くらいの睡眠が1~2カ月続いたから、ひたすら毎日眠たかった」

そんな高田たちの風向きが変わったのは79年の渋谷ジアンジアンでの公演。『サウロロフス騒動記』で注目を浴びたのをきっかけに東京乾電池にテレビ出演のオフアーが舞い込む。お昼のバラエティ『笑ってる場合ですよ!』。80年10月1日スタートの新番組だった。これが第4の転機。「でもね、そのころは漫才ブームで出演者もツービートさんとかB&Bさんとか売れてる若手芸人ばっかりだったから、最初のうちはほとんど注目を浴びなかったん・ですよ。東京乾電池ニュースっていうコーナーだったんだけど、まったく受けなかった。でも観るほうにも惰れっていうのがあるみたいで、半年過ぎて、コーナーが定着してきたら、ある程度笑いのツボではないけれど、やっててお客さんが食いついてくるのが分かってきたんだよね。で、結局1年くらい経ったときかな、毎分視聴率の中で乾電池ニュースが一番いいぞっていわれたときはなんかちょっとね、泣きそうになりましたよ。そのころのお笑いブーム、その最終バスになんとか強引に乗れたって思ったよね」

″業界でやっていける自信みたいなものが沸いたのはこの頃ですか?″と尋ねると″まだ全然だったね″と笑った。「この番組をやってるときに月50万近く月給がもらえるようになったのよ。甲34歳だったから、その年代の人にようやく追いついたって気がしたの。ドラマの端役ももらえたしね」

なんとか確信が持てたのは『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』への出演が決まってから。85年4月、これが第5の転機。

「日曜日のキー局のゴールデンなんて大変ですよ。まっ、それは俺に実力があったから仕方ないんだけど(笑)。実は後で聞いた話で、この番組、ベンガルか俺のどつちかにしようって話になってたんだって。で、ベンガルは演劇的だし、高田のほうがC調っぽいからってんで、僕に決まったんですよ。それが反対になってたら、僕は今、舞台中心の活動していたかもね」やhソたいことがあるのならフットワークを軽くしろって

日曜日のゴールデンタイムの影響力といったら、やっぱりハンパなものではない。番組出演から半年後には他の仕事のオフアーがかなりあったという。中でも″♪サン、サン、30代も~、グロンサン!″のフレーズが印象的な中外製薬の「グロンサン」のCM。これに登場したのが86年、39歳のときだ。「これはいいなって。だって別にレギュラー番組なくてもCMはしょっちゅう流れるワケだから。このCMに出てるっていえば地方にいっても知名度はあるだろうって。だからこの辺りからちょっと本気出してやっちゃおうかと(笑)。CMやり始めてからこの業界でなんとか生きていけるっていう安心感は持てたよね」

紆余曲折のすえ、ようやく自分の将来に希望の灯を灯したのは40歳直前。そんな彼からしたら、20~30代にして、自分の人生見失ってるヤツなんて、笑っちゃうくらいおかしい存在。「25歳なんて年齢的にはまだペーペーでしょう。まだ蒙古斑が残ってて、ケツが青いって(笑)。そのくらいのときって、脳みそも回転してるし、あれやりたいこれやりたいっていう年じゃない。俺もやっぱり25のときには人生の先行きが決められなかったワケだし。人によっては一流の会社に入ってる人もいるだろうから、そこを辞めるのはどうかとも思うけど、そうじやなくて、俺自身も反省してるんだけど、自分はこういうことをやりたいって思ってる人はやっぱり甲25くらいから本格的に考えてフットワークよく動いていかないと。で、考えが固まってくるのは祁二別後。それまでの5年間で実力つけていけば、いいんじゃない。まっ、俺みたいに40近くで花開くケースもあるから、人間の成功っていつ来るかはホント、分からないんだけど」

40歳で出演した″5時から男″のCMでかる~い男のイメージがさらに加速した。以来、″日本一軽い笑いの男″という地位は不動のものになった。「もう満足っていうか、年も年だしね。もう少しやりたいことはあるんだけど、一番パワーあるのは40代でしょう。俺なんかあと3年で60歳だもん。それでこんなチンタラしているようじやねぇ~。いやまあ、だらしなく58年間よく生きてきたけど、言ってるんですよ。″それならあと5年はちょっとだらしなく生きさせてくれ″って(笑)」

さすが高田純次、遅咲きの才能は58歳にしてなおさかんだ。でも、この後、第6の転機があったら、ちょっと面白い…かも。