【オリンピックの詩】真の勝者たれ – 石原慎太郎

国家が国家として在る限り、それぞれの国益を踏まえての、「国際的」と呼ばれる国同士の関わりは数多い形として在る。その最たるものは戦争に違いない。故にも経済や文化における国対国の関わりも、時には摩擦や衝突を超えて何々戦争とさえ呼ばれもする。

スポーツ競技は本来人間の肉体の能力の発露として構えられるものであって、余計な観念や思想をからませることなく行われる純粋かつ始原的な行為であり、政治と最も関わり少ない行事のはずだった。しかしオリンピックが開催されるにつれ、文明の進展とともに世界が物理的、時間的、さらには情報的に狭まってきたことで、スポーツの国際競技は個人ではなしに彼らが属する国対国の競い合いという政治性を帯びるようになってしまった。これは当然のことながらスポーツの本質的な変容、引いては堕落にも繋がりかねない。

スポーツを露骨に政治に利用しようとしたのがかつてのベルリン・オリンピックにおけるヒトラーであり、最近では、サッカーのアジアカップにおける主催国中国の、日本チームに対するあの狂態だった。しかしこれは文明の進展のもたらす必然悪であって、今さらそれをどう回復できるものでもありはしまい。ということを心得た上で我々は、我々の代表である日本チームに期待し声援を送りたいと思う。故にも、いかにも矛盾したいい方にも聞こえようが、故にも彼らには勝ってもらいたい。

国費で送り出される彼らにはそれ故の責任があり、期待が集められているのだ。かつてアトランタ・オリンピックの折に、意外な不振であえなく最初の予選で敗退してしまったある女子選手が、帰国した折のインタビューで、しゃあしゃあと、「私は成績を気にはしていません。十分楽しんできましたから」と答えるのを聞いて腹だたしかったのは私だけではあるまい。

私は彼らには決して過重な結果を期待はしまいが、しかし渾身(こんしん)の努力はしてもらいたい。たとえ敗れはしても渾身の戦いは必ず、眺める者の心を打つ。それがスポーツという何よりも人間むき出しの方法の醍醐(だいご)味に他ならない。敗れても努め耐えぬいた者の姿は必ず、美しい。

私はそれをかつての東京オリンピックで最終日、最後の最後にメーンスタジアムのポールに初めての日章旗を上げたマラソンの円谷選手に見た。解説席のモニターに映った、最後の中継カメラの撮した彼の走る姿はもはや体力の限界を超えたものだった。そしてそのすぐ後ろにイギリスのヒートリー選手が現れた。彼は無念にもバックスタンド前でヒートリーに抜かれ、四人目の選手も追い上げてきたが、必死に走りきって念願の日の丸を上げてくれた。

そしてその彼は怪我(けが)の癒えぬ体を一人かかえて、次のオリンピックへの過剰な期待に耐えかね静かに自決して逝ったのだった。一体誰に、彼をそこまで追いつめるつもりがあったろうか。しかし彼のあの美しく切ない遺書を読んだことで、私たちはスポーツという無償純粋な行為の世界に励む者にこそ見られ得る、人間の切なさと美しさを骨身にしみて知らされることができた。

そしてまた、未曾有の回転レシーブを考え出し、しごきに継ぐしごきで東洋の魔女たちを育て上げ、大敵ソヴィエトを破って優勝させた「鬼」とも呼ばれた大松監督が、優勝の瞬間静かに微笑んでチームから一人歩みさり遠くから彼女たちを祝福する様子を見て、私は男と女の関わりの中での男の在り方をひしと教えられたような気がしていた。

私たちがオリンピックに求めて止まぬものは、そうした純粋な人間たちのつくり出す純粋な劇に他ならない。それは決してメダルに表象されるものではない。しかしあくまで選手たちに知っていてもらいたいのは、そうした比類なく純粋な感動をもたらすものは、自分を殺しきった、血を吐くような努力の体現以外にありはしないということだ。

ヘミングウェーは『勝者には何もやるな』といった。私たちが今度のオリンピックで求めるものも、たとえ敗れようと何かを超えて勝った真の勝者をなのだ。

産経新聞(2004年8月14日)

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