トーリ監督 LIFE&BALL – ジョン・トーリ 3

愛あるコーチに囲まれて

彼らの補佐が、私の質の高い決断を生む。選手も同様だ

投手が相手チームを零点に抑えれば負けはない。これは野球のセオリーだが、今年のチームほど勝利への継投パターンが確立されているシーズンもそうはない。

ヤンキースの試合を連日、衛星中継でご覧になっている日本のファンならすでにご存じかと思うが、カナダ出身のクアントリル、三十六歳のゴードンが抑え投手のリベラヘと橋渡しをする。彼ら三人のリレーの通算は二十七日現在、24勝3敗。クアントリルがマウンドに上がることは勝利を意味し、チームにもファンにも絶大なる信頼を誇っている。

もちろん投手の交代機を最終的に決断するのは私の仕事だ。試合の流れを見極め、データを基に戦術を練る。しかし、こうして私が安心して指揮を執れるのも、ひとえにピッチングコーチ、メル・ストツトルマイヤーのおかげであるということを話しておきたい。先ほど話した勝利の継投パターンもいわゆる彼の功績といえるし、私のテーブルに重要な情報とデータを寄せてくれている。

彼とは一九九六年に就任して以来、九年間の付き合いとなるが、これまでどれほど彼に助けられてきたことだろう。私が投手出身でないということもあるが、ピッチングスタッフに関してはすべて彼にまかせている。投手には投手にしか分からない、理解できないところもあるし、何より彼は投手の皆から尊敬される存在なのだ。そして、愛されている。

先日もこんなことがあった。休み明けにメルが唇を切って球場入りすると、投手連中がくすくすと笑っている。私は大好きなボート釣りをしている際に負傷したと聞かされていたため、さして気にしなかったが、リベラあたりばそうはいかない。メルをつかまえると、まってましたとばかりに「奥さんにかみつかれたのか?」「ガールフレンドにかみつかれたのか?」とからかっている。六十二歳のコーチ相手にである。

だが、そんなほのぽのとした雰囲気は何とも自然で、先輩と後輩、上司と部下という間柄を感じさせず、見ていてうらやましくさえ感じるときがある。

少し話が横道にそれてしまったが、私が言いたかったのは、企業の経営者や管理職は、補佐してくれる優秀なマネジメントチームがいなければ、仕事はまず全うできないということだ。マネジメントチームを言い換えれば「統率者を支える人たちの集団」とでもなろうか。マネジメントにふさわしい人材が集まっていれば、その上に立つ指揮官はそれだけよい情報が得られ、それだけリラックスして、企業内のすべての人間とより強力な関係を築くことができる。それを私は経験から知っている。

今シーズンも、私にはヤンキースの素晴らしいマネジメントチームがついていてくれる。打撃のことならドン・マッティングリー、作戦のことならウイリー・ランドルフ、そして医療のことなら優秀なトレーナー陣・・・。彼らが質の高い仕事をしてくれるから、私も質の高い意思決定ができるのである。

それではどのようなコーチが優秀であるのか。コーチには何が必要なのか。そのまま会社に置き換えるならば、あなたが社長なら、どのような役員を周囲に配置したいか。あなたが部長なら、何を部員に期待するか。

私はコーチ陣に対していくつかの基準を設けているが、彼らは全員それにびったり当てはまる。ただ毎日顔を出すだけのコーチはいらない。欲しいのは、自分のいる場所が好きで、自分の仕事に情熱を持っているコーチだ。周りにいる人間は陽気であってほしい。これも最大の要件のひとつである。メルのように。

私が優れた支援体制を必要とするのは、選手たちが同じようにそれを必要としているからだ。優れた支援体制なしに、我々の仕事は成し遂げられない。また、自分自身の意見をきちんと持っているコーチが欲しい。私を喜ばせるためだけの意見では困るのである。

以下のことは講演や著作の中でもたびたび触れたことだが、一つのチームを大きな円と考えてみよう。マネジメントチームは、円の中心部に当たる。この芯(しん)の部分が自分の仕事を楽しめない人の集まりでできていたら、どうやって大きな円であるチームのメンバーを自信とやる気を持ってプレーするように指導できるだろう。できるわけがない。

私にいい仕事かでき、選手たちが積極的な姿勢を持つことができるのも、コーチたちが自分の仕事を愛し、楽しみ、勝つことに執念を燃やしているからだ。これはどんな経営者にとっても、マネジメントチームを選ぶときのよい基準となるはずだ。

監督や経営者というものは、しばしば孤立無援の状況に立たされる。だから、決してマネジメントチームの大切さを軽視してはならない。仕事は一人ではできない。できると思うのは間違いのもとだ。

尊敬でき、信頼できる人物を選び、その信頼を進んで示すこと。たとえどんなに自分の考えとは違っても、彼らの考えを自由に発言してもらえる雰囲気をつくること。戦略や人事や作戦について意見が分かれるのは、自由に意見を述べ合うことができる限り、すごく健全なことなのだ。

【メル・ストットルマイヤー】現役時代はヤンキース歴代6位の164勝を挙げた右腕。メッツ、アストロズの投手コーチを経て1996年ヤンキース投手コーチに。62歳=写真?、AP

山口淑子(30)ああ、リュバ

53年ぶり、恩人と再会
解けぬ問いを残して逝く

リュバ、あなたはどこでどうしているの? 私はいつもそれを考えていた。私の命を救ってくれたリュバは生きているのか。消息を尋ね回っていたのに何もわからない。

ところが、私を取材していたテレビ関係者が、終戦直後の上海にいたユダヤ人グループの足跡をたどり、リュバの居所を突き止めてくれた。

元気で生きている。会いたい。どうしても会いたい。会って、3日だけでもお礼を言いたい。だが、その機会もなく、文通だけでお互いの消息を伝えあっていた。そこにNHKから「李香蘭 遥かなる旅路」という番組のお話をいただいた。平成十年(一九九八年)のことだった。

私は喜んで出演した。撫頓、藩陽(旧奉天)、長者(同新京)、上海と思い出の地を巡り、ついにリュバが住むロシア共和国のエカテリンブルクに向かった。モスクワから飛行機で二時間半。窓の下に広がる雲海を鏡にして、幼かつたリュバのそばかす顔が浮かぶ。戦争が終わり、上海の収容所にいた私に会いに凄てくれた美しいリュバの面影が見えるようだった。

空港に着いた。リュバが待っていた。体が小さくなって白髪に覆われてはいたが、ああリュバ、あなたね、あなたなのね。私も歳をとったわ。53年ぶりよ。

私たちは抱き合った。そしてリュバは「日本語、全部忘れました」と言い、ロシア語と英語になった。声は掛れ、ときにかすれた。「夢みたい」。お互いに同じ言葉を幾度となく口にした。

彼女の部屋には私の写真が何枚も飾られていた。話したことを忘れてしまうくらい長い時間、語り合った。だが「あれからどんなことがあったの?」と聞いても、リュバは「そんなことよりあなたは?」と話題をそらす。

私は彼女の手を握った。とうとうリュバは語った。自分の身に起きたことを。

昭和21年(1946年)、リュバは上海でユーリ・ユムシャノワさんと結婚し、ウラル最大の工業都市エカテリンブルクにやってきた。ところがユーリは理由もわからず、秘密警察KGBに国家反逆罪で逮捕された。25年の刑。シベリアの強制収容所に送られた。スターリンの独裁時代だった。

幼い一人息子を抱えたリュバは嘆願書を出し続け、モスクワの検事局と掛け合った。その結果、夫はフルシチョフ時代になって7年の刑期で自由になった。リュバは戦争を戦い、なお終わらず独裁の時代と戦って生きてきた。顔に刻まれた深い雛が苦闘の跡を隠せないでいる。

リュバは夫と息子に先立たれていた。夫の墓前で声をあげて泣いた。私も泣いた。

短い再会のときは過ぎた。帰国の時間だ。空港に車で向かった。車中でも私たちをカメラとマイクが追う。車が止まった。私は何気なく「お兄さんはどうしたの?」と尋ねた。カメラが離れた一瞬、リュバがささやいた。

「ナナサンイチブタイを知ってる?」。日本語だった。

生きた人間をモルモットにして生物化学兵器の研究をした七三一部隊のこと? まさか、あのお兄さんが七三一部隊の犠牲に? 嘘でしょ。違うと言って!

リュバは沈黙したまま、一年後に逝った。答えてくれる人はもういない。問いは虚空を駆け巡る。

山口淑子(元参院議員)

=おわリ

山口淑子(29)中国再び

国交回復、放送中に涙
議員時代、29年ぶり北京へ

大鷹の赴任地、ミャンマーのラングーンは敬虔な仏教徒の町。車のクラクションも聞こえないほどの静寂に包まれていた。直前までいたニューヨークの喧嘩から、一転して静けさの中にぽつんと放り出され、いや応なく自分と向き合う時間はつらくもあった。

ジュネーブ、スリランカ、フィジー。夫とともに移り住んだ。

日本に戻るとテレビの様々な番組に呼ばれた。そして冒頭で書いたようにフジテレビ「3時のあなた」の共同司会者を務めるようになる。午後の主婦向けバラエティーの先駆けになったこの番組の思い出は多い。

昭和47年(1972年)9月29日。日中の国交が回復したその日、番組の中で共同声明とその調印式の模様を放送した。田中角栄首相の紅潮した顔、周恩来首相の唇を引き結んだ類が画面に大写しになる。両首相が固い握手を交わす場面を見て、思わず涙がこみあげてきた。

長い戦争を戦い、殺し合い、憎みあい、悲しみを積み上げてきた私の祖国と母国が、いまこうして曲がりなりにも手を携えた。共同声明前文には、過去の出来事に対する日本側の謝罪が盛り込まれている。脳裏に焼き付いている数々の光景がフラッシュバックした。頬をぬらす涙を隠そうとスピーカーの後ろに回った。私は気づかなかったが、その姿もまた電波に乗った。

番組で動物虐待問題を取り上げ、英国には百年前から虐待防止法があるのに日本にはないことを知った。動物好きの私や番組のスタッフは国会議員の皆さんに法制定を訴えて回り、「動物の保護及び管理に関する法律」が成立した。その姿が目にとまったのか、自民党田中派から参議院選挙へのお誘いがあった。四十九年七月の選挙で当選した。

戦後もずっと左翼映画人の立場を貰いてこられた岩崎昶(あきら)さんは「せめて社会党から出てほしかった」と言われたが、むしろ自民党の方が自由に動けそうだった。議員は三期十八年。女優時代とほぽ同じ長さになる。

戦後初めて二十九年ぶりで中国を訪れたのは五十年七月のこと。自民党訪朝団の一員としてピョンヤンに向かう途中、北京で一泊した。宿舎の北京飯店にいた私に、深夜の来客があった。日中友好協会秘書長だった孫平化さんが三人の部下を従えて「聴きたいことがあります」と言う。

ホテルの一室で向かい合った孫さんの目は鋭かった。私がよく口にしていた「日本は父の国、中国は母の国」という言葉の真意を質された。「父親が日本人で母親が中国人ということですか」

私は矢継ぎ早の質問に答えながら、出生から今日に至るまでを包み隠さずお話しした。大陸三部作に出たことを後悔していることも告白した。午前二時半になっていた。

私が無罪になった漢紆裁判は国民党によるもの。中国共産党は自分たちの目で私を判断しようとしたのだと思った。私にとっては予期しない訊問ではあったが、それは甘んじて受けなければならないものだった。

戦争で日中両国が失ったものは多すぎる。本当の信頼を回復するのに、あとどれだけの時間がかかるのだろう。

満映の甘和正彦理事長は戦後すぐ、理事長室で青酸カリを飲んで自殺した。黒板にはこう書かれていたという。

「大ばくちもとも子もなくすってんてん」

山口淑子(元参院議員)

ハインリッヒの法則

安全管理の世界に「ハインリッヒの法則」という考え方がある。1つの重大事故の陰に29の小さな事故があり、さらに300の細かい事故があるという。

重大事故は突如起こるわけではない。随伴する多数の事故の原因をこまめに潰さないと防げない。

三低

現代女性の理想の結婚相手、それは「3低」なんだそうです。
 ・常に女性を敬う”低”姿勢
 ・どんな時代にも関係のない”低”リスクな職業
 ・行動に制限をしてこない”低”依存
バブル期は「3高」がもてはやされただけに、この「3低」は、不景気さを感じさせる象徴のようなものだと思いませんか?世の中は悪くなったけど、でも女性は社会進出が進み、その結果強くなり、プライベートでは安堵を望むようになった…。3低の男性が、3高の女性を理想にする日も近いかもしれませんね。良いのか悪いのかは…うーん、ちょっと微妙?

人間は楽しんでいるとき最高の力を発揮する

by 本田宗一郎

【オリンピックの詩】真の勝者たれ – 石原慎太郎

国家が国家として在る限り、それぞれの国益を踏まえての、「国際的」と呼ばれる国同士の関わりは数多い形として在る。その最たるものは戦争に違いない。故にも経済や文化における国対国の関わりも、時には摩擦や衝突を超えて何々戦争とさえ呼ばれもする。

スポーツ競技は本来人間の肉体の能力の発露として構えられるものであって、余計な観念や思想をからませることなく行われる純粋かつ始原的な行為であり、政治と最も関わり少ない行事のはずだった。しかしオリンピックが開催されるにつれ、文明の進展とともに世界が物理的、時間的、さらには情報的に狭まってきたことで、スポーツの国際競技は個人ではなしに彼らが属する国対国の競い合いという政治性を帯びるようになってしまった。これは当然のことながらスポーツの本質的な変容、引いては堕落にも繋がりかねない。

スポーツを露骨に政治に利用しようとしたのがかつてのベルリン・オリンピックにおけるヒトラーであり、最近では、サッカーのアジアカップにおける主催国中国の、日本チームに対するあの狂態だった。しかしこれは文明の進展のもたらす必然悪であって、今さらそれをどう回復できるものでもありはしまい。ということを心得た上で我々は、我々の代表である日本チームに期待し声援を送りたいと思う。故にも、いかにも矛盾したいい方にも聞こえようが、故にも彼らには勝ってもらいたい。

国費で送り出される彼らにはそれ故の責任があり、期待が集められているのだ。かつてアトランタ・オリンピックの折に、意外な不振であえなく最初の予選で敗退してしまったある女子選手が、帰国した折のインタビューで、しゃあしゃあと、「私は成績を気にはしていません。十分楽しんできましたから」と答えるのを聞いて腹だたしかったのは私だけではあるまい。

私は彼らには決して過重な結果を期待はしまいが、しかし渾身(こんしん)の努力はしてもらいたい。たとえ敗れはしても渾身の戦いは必ず、眺める者の心を打つ。それがスポーツという何よりも人間むき出しの方法の醍醐(だいご)味に他ならない。敗れても努め耐えぬいた者の姿は必ず、美しい。

私はそれをかつての東京オリンピックで最終日、最後の最後にメーンスタジアムのポールに初めての日章旗を上げたマラソンの円谷選手に見た。解説席のモニターに映った、最後の中継カメラの撮した彼の走る姿はもはや体力の限界を超えたものだった。そしてそのすぐ後ろにイギリスのヒートリー選手が現れた。彼は無念にもバックスタンド前でヒートリーに抜かれ、四人目の選手も追い上げてきたが、必死に走りきって念願の日の丸を上げてくれた。

そしてその彼は怪我(けが)の癒えぬ体を一人かかえて、次のオリンピックへの過剰な期待に耐えかね静かに自決して逝ったのだった。一体誰に、彼をそこまで追いつめるつもりがあったろうか。しかし彼のあの美しく切ない遺書を読んだことで、私たちはスポーツという無償純粋な行為の世界に励む者にこそ見られ得る、人間の切なさと美しさを骨身にしみて知らされることができた。

そしてまた、未曾有の回転レシーブを考え出し、しごきに継ぐしごきで東洋の魔女たちを育て上げ、大敵ソヴィエトを破って優勝させた「鬼」とも呼ばれた大松監督が、優勝の瞬間静かに微笑んでチームから一人歩みさり遠くから彼女たちを祝福する様子を見て、私は男と女の関わりの中での男の在り方をひしと教えられたような気がしていた。

私たちがオリンピックに求めて止まぬものは、そうした純粋な人間たちのつくり出す純粋な劇に他ならない。それは決してメダルに表象されるものではない。しかしあくまで選手たちに知っていてもらいたいのは、そうした比類なく純粋な感動をもたらすものは、自分を殺しきった、血を吐くような努力の体現以外にありはしないということだ。

ヘミングウェーは『勝者には何もやるな』といった。私たちが今度のオリンピックで求めるものも、たとえ敗れようと何かを超えて勝った真の勝者をなのだ。

産経新聞(2004年8月14日)