採用は先着順でいい – 松浦元男

どうして「先着順採用」?
技術者にとって重要なのは才能よりトレーニング
最高級の設備とチャンスを与えればやる気は引き出せる
この手で、指先で世界に挑め!
どんな若者も未知の可能性を秘めている

1935年、名古屋市生まれ。68歳。60年、愛知大学法経学部卒業後、サラリーマン生活を経て、65年、樹研工業を投立。極小部品にこだわり、99年に10万分の1gの歯車、2002年には100万分の1gの歯車を発表し、注目を集める

次ページの写真、テレビで見覚えのある人も多いのではないか。
顕微鏡でなければ見えない、米粒よりも小さな歯車。プラスチック部品メーカーの樹研工業(愛知県豊橋市)は、99年、10万分の1gの歯車を開発したのに続き、昨年、100万分の1gの歯車を発表。年商27億円と小粒ながら、研究開発と技術力の高さに定評ある優良企業だ。
そんな最先端企業の技術者は、どんな厳しい選抜を経て採用されるかと思いきや、これが「先着順」である。
ほとんどが工業高校卒で、かつてパンチパーマに太いズボンという典型的な″ツッパリ″スタイルで応募してきた‥若者達だ。それが今や、三次元CAD(コンピュータによる設計)や最新鋭の工作機械を駆使して、世界を驚かす極小部品を作り出す。
なぜ、先着順なのか?松浦元男社長は、「元々、応募者が殺到することなんてない会社でしたから‥‥‥」と頭を掻くが、そもそも入社時点での社員の能力に関心がない。「うちがやるのは学問じゃなくて、あくまでテクノロジー(技術)。これはトレーニングで決まる世界」だからだ。
もちろん、やる気は必要だし、相性もある。しかし、「そんなこと一日二日で分からないから、テストするだけ時間も手間も無駄。それに、やる気だったら誰からでも引き出せますよ」と自信たっぷりに蒙譜する。
社員に与えるべきは、チャンスとモチベーション(動機付け)。具体的には、最高の設備と高い目標だ。
だから、設備の轡人は現場に任せる。条件は一つ。「三流品は絶筆っな。一流品を買え」。最近も、社員が購入を提案した工作機域を、「もっと精度が高いのがあるじゃないか」と却下して、約3倍の値段の機械に変えさせた。
それで痛い目に遭うことも多い。850万円した機械が小さな穴を二つ開けただけでお蔵人り、2700万円の機械が歯車一つ作って用済みに、といった具合だ。「『買いたい』と言い出した奴には、『騙したなあ!』と言ってからかいますが、失敗はあっていい。学ぶものがある」と鷹揚に構える。

歯車一つ2700万円!最高の設備がやる気の源

何より、最高の機械を手に入れた途端、目を輝かせて研究開発に励む社員の姿は、何物にも変え難い。
「仲間の社長から一世代前のパソコンを安く買って喜んでいるようじゃダメですよ。オンポロの軽自動車をもらって、Flレースに出ようと思う若者はいない。しかし、スポーツカーを買い与えれば、早く走りたい気持ちが昂ぶり、自ずとマシンも研究する」
可愛い社員に″贅沢″を満喫させる一方、松浦社長の生活は至って地味だ。ゴルフもしなければ、酒も飲まない。″豪遊″と言えば、平日の昼、社員を引き連れ自腹で飯を著ること。そんな社長の姿を知ればこそ、高い機械のありがたみも増す。「ケチケチするな」と言いながら、自己資本比率40%を堅持するのも社長の務めだ。
先着順採用にこだわるのには、ほかにも理由がある。
第一に、試験や面接をすると、同じフィルターを通して、似たような社員ばかりが揃ってしまう。それでは、新しい発想は生まれない。個性を重んじるため、入社後も「ルールなし」が大原則。出勤簿もタイムカードもなく残業も自己申告制と徹底している。
第二に、社員との間に信頼関係を築きやすい。「『入りたい』と言って来た気持ちが、一日坊主で終わるか、三日止巧主で終わるかはさておき、まずはその心意気を信じてやろう、と」。そんな信頼感から雇用関係が始まることを重視する。
「周囲の人の信頼を感じ、周囲の人に愛情を持てば、社会の中に自分の役割を探す。職人ならば技術を磨く」
どこまでも″人″の可能性を信じる松浦社長の心の広さこそ、樹研工業の技術を底辺で支える柱だ。

松浦元男樹研工業社長

「成功への10 のコメント」 野村証券営業向け訓示

(1)原点に帰る。客に会う。ひたすら会って話す。

(2)悪い環境を是認する。そして負けない。機会はいつでもある。

(3)真価が発揮できる。自分に自信を持つ。競争相手はみんな疲弊している。ツキに恵まれただけの人々は脱落する。

(4)いささかの勇気のある行動をとる。悪いことをはっきり言う。逃げない。殺されるわけでない。

(5)晴れた日に客はいない。雨か、暑い日、寒い日にこそ大物に会える。

(6)社内の暗い打合せにつかりこまない。何をやらなければいけないかは、自分で考える。一歩外に出たら、ニッコリ笑える顔、いかにも精力的な歩き方、熱意のある話し振りが重要である。

(7)自分をスポイルする話には加わらない。さばる時は一人でさぼる。二人以上は傷のなめ合いか上司の悪口にしかならない。辛い時こそ安酒は飲まない。みじめにしかならない。遊ぶ時は豪華に、普段は真っ直ぐ家に帰る。

(8)教養を高め、人望を厚くする。いい本を読む(仕事関連のものは当然のこと、むしろそれ以外のものを)。いい音楽を聞き、いい絵をみる。いい芝居を観賞する。相手はみんなレベルが高い。話の端々に人柄がでてしまう。夜討ち、朝駆けだけ、特攻隊だけでは玉砕するばかりである。

(9)セールスの仕事で成功しないものに未来はない。多くの仕事は説得力があるかないかで決まる。訓練は外交の中にしかない。客を説得する過程でしか腕は上がらない。全人格的能力が発揮できる唯一の場は、セールスの現場である。

(10)小欲を捨て、大欲を持つ。小欲とは、目先の評価ばかりを気にすること。大抵は自分の実力、努力以上の評価を期待している。大欲とは、目先は損してもいいという小欲を捨てることから始まる長期的大望である。自分の将来の在るべき姿が描けなくて何の成功があろう。

『沈まぬ太陽』の主人公が語る – 小倉寛太郎

民青同盟東大駒場班
1999年駒場祭講演会

『沈まぬ太陽』の主人公が語る
人間として信念をつらぬくということ
~「私の歩んできた道」駒場からナイロビまで~

語り手:小倉寛太郎(山崎豊子著小説『沈まぬ太陽』の主人公の原型)

目次

1、はじめに

2、軍国少年時代
●小学生時代
●県立湘南中学生時代
●いとこ二人の特攻隊での死
●戦後、甲府中学でのストライキ

3、東大時代
●東大教養学部第一期生に
●自治会、学友会、生協、駒場祭をつくる
●大学におけるレッドパージ反対のたたかい
●父の死、授業にでられなかった法学部時代
●A.I.U.への就職と組合運動

4、日本航空へ中途入社。組合委員長に
●日本航空へ中途入社
●日航労組委員長に。カラチ、テヘラン、ナイロビへ
●会長室部長へ
●なぜやめなかったのか
●肩書きは仮衣装

5、親から学んだこと
●天知る、地知る、我知る
●先憂後楽
●お辞儀の角度

6、体験から学んだこと
●権力者のいうことを鵜呑みにするな
●人間は弱い。だから団結と連帯が必要だ
●必要なこと=冷静な頭脳と温かい心

7、東アフリカから学んだこと
●自然における人類の位置
●異文化への理解の必要性
●別の角度から日本の社会と日本人を見る必要性

8、東京大学とは、日本国にとって、日本国民にとって何なのか?

1、はじめに

ご紹介いただいた小倉といいます。通称、かんたろう、本当は親がひろたろうと読ませるつもりっだったのですが、幼稚園の時からかんたろうと呼ばれてます。今日お話しするのは、K君から電話があって、私はよそでお話しするのは原則として断っているんですけど、この駒場の場所は懐かしいし、それからまず第一にこの第一回の駒場祭の委員長をやっていたのでやっぱり断るわけにはいかない、とお引き受けしたしだいです。

『沈まぬ太陽』のことが言われました。あれはだいたい30年前のことから10年ぐらい前のことの話ですので、今日、現れた私をごらんになって“なんだこんなじじになったのか”、というふうに落胆なさったかたも多いと思いますが、数学上、こういうふうに年をとらざるをえなかったということをまずご理解いただきたいと思います。

みなさんのお手元に年表がありますように、1930年に生まれて、数えで、古希になります。私の世代の幼い頃というのは、戦争の前夜でした。私が小学校に入った年にロコウキョウ事件がおこっています。この戦争の話をしなければならないんです。しかし、友人に言われました、「お前、あんまり戦争の話をしても、今の学生はピンとこないよ」。「そうか」と思い、彼といっしょに勘定してみた。私が駒場の門をくぐった50年前、日露戦争から45年たっていたんです。我々の世代からすると日露戦争というのはものすごい古い話で、もう東郷平八郎、日本海海戦というのなんて、神話的な伝説のようなものだった。今の学生は、この前の太平洋戦争が終わってから、駒場の門をくぐるまで54年たっている。われわれの世代が日露戦争を振り返る以上に、今の学生諸君にとっては年月がたっているということを気づいて愕然としました。

しかし、どうしても、戦争の話はさけてとおれない。というのは、私の人間形成はこの戦争がいろんな意味でかげを落としております。私は戦争に負けた年に、再びこのようなことがあってはいけないということを、いろいろだまされていたということを痛感して、その後の私の生き方が決まりました。ですから、ここで若干、当時の日本の情勢にふれることもぜひお許しいただきたいと思います。

2、軍国少年時代

●小学生時代

小学校に入った年に始まった日中戦争はどんどん拡大し、その翌年には国家総動員法というのができました。この国家総動員法というのは、人的資源、労務、物資、出版などを統制する法律です。これは言い替えてみると、今年、国会で決めた周辺事態法、別の名、ガイドライン法、別の名、戦争法に非常に似ている法律です。

そしてついにその翌年には当時まであった政党はついに解散させられて、大政翼賛会というものが政府のお声掛かりでできました。そして衆議院選挙というのがあったんですが、大政翼賛会推薦候補以外はありとあらゆる不便をあたえられ、便宜をとりあげられて、大政翼賛会推薦候補以外は当選しないようになってしまったんです。その頃、私は、小学校だから、そんなからくりはわかりませんでした。日本という国は神国で万世一系の天皇がいる世界で唯一のすぐれた国だということを朝から晩まで学校でたたきこまれてましたから、大政翼賛会ができて、政府に反対するような非国民が選挙で落ちるのは当たり前だと思っていました。

そうして、さらにその次の年には太平洋戦争がはじまりました。緒戦は非常に景気がよかったんです。それはアメリカもイギリスもそれだけの準備をしていなかったためです。したがって、香港を陥とし、シンガポールを陥とし、インドネシアを占領し、まさに、破竹の勢いでした。その当時、朝から晩まで軍国主義的な教育をたたきこまれていた我々子供たちは狂喜しました。天皇の軍隊に負けはない、天皇の軍隊がいくところに正義がある、ということを思っていました。

●県立湘南中学生時代

そして、私は旧制中学にすすみました、現在と違い5年ありました。入学した県立湘南中学校というところは、海軍兵学校、陸軍士官学校の(いずれも陸海軍の幹部養成の学校ですね。今で言えば、防衛大学校、もしくは、幹部候補生学校に相当するものです)進学数が全国一番という学校でした。ですから、また朝から晩まで軍国主義教育です。そしてあらたに加わったものは、教練です。中学校一年生が、匍匐前進、もちろん行進は当然、手流弾の投擲訓練、それから強行軍。

忘れもしない1年生の夏、富士山の山麓にある、“たきがはらのしょうしゃ”という陸軍の兵営仁訓練のためということで、1年生は全部兵営にぶちこまれました。朝から晩まで軍事教練です。そして最後の仕上げは行軍、ということで、たきがはらから、富士吉田まで歩くことになりました。朝、5時に出発して、富士吉田につくまで水一滴も飲んではいけない、米つぶ一つ口にいれてもいけない。夕方5時まで、歩き続けました。そして着いた富士吉田に富士吉田神社というのがあります。見れば境内には富士の雪解け水のきれいなのが流れています。中学校一年生です。12歳です。思わず何人かが、その流れのところへぱらぱらといって手で水をすくってのみました。朝5時から一滴も水を飲んでいないのですから、炎天下歩き続けて。そこで何人かが飲みました。集合の声がかかりました。陸軍小尉だった教官がいいました。「お前たちの中で、水を飲んだもの前へでろ」。飲んだものは、前へ出ました。陸軍少尉どのはその子供たちの頭をさやごとのサーベルでたたきました。一人が頭が割れて倒れました。それを助けようとしたものもたたかれました。

これはいかに軍国主義的な教育を受けた者でもショックでした。こういうことがあっていいのか。しかし、教官の話は、「お前たちはいずれはビルマ戦線なりソロモン戦線に行って死ぬ身だ。その時、水が十分あると限らない。だいたい決められたことを守らないのはけしからん」、ということでした。水ものめなくて死んでいったガダルカナルの人たち、インパールの人たちが続出したのを知って、それが果たして必要な教育だったのかそういう無謀なたたかいを計画する方がおかしいのではないか、ということを思ったのはもっと後の話です。

そうした軍事教練の後、今度、私たちを待ちかまえていたものは、勤労動員です。まず、湘南中学校は藤沢にありました。当時、近隣は農村です。稲刈り、麦刈り、田植え、それから冬の間、二毛作のために田圃を干上げて畑にしなければなりません。その農作業に泊まりがけで動員されていました。いったい授業がいつあったのかあまり記憶にありません。さらには、藤沢の海岸に要塞砲を備えつけるというので、海岸に要塞砲を収容できる穴を掘る作業をやりました。それから、厚木の飛行場でゼロ戦のえんたい豪をつくりました。

そしてそのまま中学校2年になりました。戦局はますます不利になりました。空襲が始まります。通学の列車も止まります。2時間歩いて家に帰らなきゃいけないこともありました。さらに戦局が悪くなり工場で働いている労働者たちが、再招集で前線に送られました。工場に人が足りなくなります。中学生と女学生で埋めました。我々、湘南中学の3年生は、“東京らしゅ(?)”というネジをつくる工場に動員されました。授業はありません。わずかに日曜日だけ学校で授業がおこなわれ、平日は、朝から晩まで工場でネジつくりをしていました。

●疎開先の甲府中学時代

そして私の場合、父の仕事の関係で、一家が甲府に疎開しました。甲府中学に疎開しました。3年の時です。甲府中学の動員先は山梨自動車産業という会社でした。そこでは自動車などはつくっておりませんでした。私たちのクラスが割り当てられた部屋には、かんなくずとおがくずとそれから、木材だけがたくさんありました。何をつくる工場なのか最初はわかりませんでした。我々に指示された仕事は鉄のちょうつがいみたいな心棒のところに桧材とベニ板で模型飛行機みないなもの、船みたいな胴体をつくってそこにネジでとめることでした。聞けばそれは飛行機の昇降舵と方向陀(尾翼のところにある舵)だそうです。木製です。その飛行機は聞いたところでは木製特攻機で、当時、日本には鉄もジェラルミンもアルミニウムも枯渇していました。いったん離陸したらぶつかるだけの飛行機に、ジュラルミンも鉄もアルミニウムも使うのはもったいない。もうそれだけの余裕はない。死ぬためのだけだったら、つっこむだけのためだったら、木で十分だということで木製特攻機。

後で調べましたら、正式番号「キの115剣(つるぎ)」という陸軍の特攻機でした。そうしてこの特攻機は離陸の時、車輪をおいていくそうです。なぜなれば、再び着陸することはないんだからもったいない、次の飛行機がまた離陸に使うということでした。私たち軍国少年は、とにかくお国のためだということで、終業時間が来ても、もっともっと増産というかけ声で残業に残業をついで働きました。表彰もされました。

ところが、ある時、私にとって大きなショックを与えるできごとがありました。担任の先生に用があってさがしまわったんですが、先生がいらっしゃらない。そして工場の人に聞いたら、「ああ、当直室にいるよ」というので、当直室にいきました。ドアをノックして「甲府中学3年小倉、○○先生に用があって参りました」という軍隊式の申告をして、「はいれ」という声がしたので入ると酒のにおいがしました。見ると、配属将校(当時、各中学校、高等専門学校、大学には陸軍から配属将校というのが配属されて、監視役をやっていました)、担任の先生と配属将校と工場の幹部、それから工場の監督官である中佐が、車座になって酒を飲んでいて、お酌をしているのは当時、我々中学生といっしょに動員されてきた甲府の芸者さんたちでした。人に愛国を説き、増産を説き、滅私奉公を説いている人たちが昼間から、このような状況でいるというのは私は目が信じられませんでした。

悪童れいに言わせると甲府に動員されていた芸者さんたち、普段は我々は一緒に働いていたんですけど、非常にかわいらしい私たちとかわらない人たちもいたんですけど、「そういうかわいい人がお酌をしていたから、お前はやきもちで怒ったんだ」というような人がいたんですが、そうではないんです。このとき、私は偉そうなことを言っている人たちが、本当に偉いのかどうか、疑問があるという気持ちがしました。しかし当時の情勢の中では、これはあくまで例外的なものだ、と自分で自分に言い聞かせていました。

●いとこ二人の特攻隊での死

やがて戦局はますます不利になりました。特攻隊が続々出ていきます。私の尊敬していて、昔よく遊んでくれたいとこが、一人は海軍兵学校をでて航空に進んでいました。

練習機で編成した特攻機が沖縄に出発するとき、隊長を誰にするか。その隊員の主力は予科練出身者です。予科練というのは、航空練習生といって尋常小学校、中学校1年、15才、16才から少年飛行生として募集した人たちです。その予科練の人たちは特攻要員だったんです。しかし、隊長だけは海軍兵学校のものがいかなければいけないといって、私のいとこは、当時、中尉でありましたけれど、名乗りでて、隊長になって、そのまま練習機による特攻隊で戦死しました。おそらく敵艦上空には到達する前に、たたき落とされたと思います。

もう一人のいとこは慶応大学の予科に、いまでいうと教養部ですね、在籍していましたが徴兵猶予の取り消しがあって、学徒動員で軍隊に行かされました。配属されたのは海軍です。二等水兵として入隊し、毎日のように、古年次兵と下士官から殴らたそうです。それでも大学での旧制の専門学校卒業の資格はもっていましたから、予備学生として、士官になる資格がある。少尉になりました。そして全員が特攻隊を志願するなかで、慶応出の私のいとこは人間魚雷にわりあてられました。人間魚雷、回天です。

海軍が使っていた直径約80センチの93式魚雷という魚雷の人間一人が乗り込めるような場所をつくって、そうして潜望鏡をつけ、潜水艦を母艦として敵艦隊のそばまではこび、母艦から発射してもらって後は、自分一人で潜望鏡をたよりに敵艦に自分からぶつかる装置です。同じく昭和20年、1945年1月、南太平洋のウルシイというところの敵艦隊に突入して死にました。おそらく敵艦隊にはぶつかれなかったと思います。というのは十重二十重の防潜網がある。その母艦はかえってきませんでした。母艦の潜水艦はレーダーでいち早く探知され、あるいは発射前に母艦ともども沈められたのではないかと思います。

そうして、明日、篠田正道さんという、日本航空のキャプテイン、その前は特攻隊のパイロットだった方が駒場祭でお話になるそうですが、陸海軍あわせて、4000人の若い人が死にました。みなさん方ご存じの通り、学徒動員で死んだ方が非常に多いんです。陸軍士官学校、海軍兵学校をでた人たちから見ると、民間の学校から動員されていった人たちは、スペアと呼ばれました。ようするに予備部品なのです。特攻要員がです。そうして4000人の人が死にました。

いとこの遺書を見ても、おざなりに他の人と同じように天皇陛下万歳と書いてあります。しかし、その後、本音がでてまいります。親兄弟、次の世代のために死にます。私は正直言って、頭茶色に染めて、じべたにべったり座って、漫画の本読んでる人を見ると、次の世代のためにといって死んだ、いとこがもし生き返ってこれを見たら、腹が立って腹が立ってもう一度死んでしまうんではないかと思います。

しかし、まあ、流行をとやかくいうわけではないんですが、姿かっこうはどうあってもいい、しかし、日本の国を今後どうするのか、日本の国民はこれでいいのか、今の政治はこれでいいのか、いうことについてもう少し真剣に考えていただけないだろうかというふうに思います。今日もテレビで、ヒロシマのお祭りで、暴走族が300人、警察とわたりあっているのが画面にうつしだされました。なぜ、ガイドライン法の時に、こういうふうにぶつかってくれないんですか。盗聴法の時に、このような衝突がないんだろうかと思いました。

ということで日本はついに負けました。負けて当然なんですね。勝つはずがないんです。シンガポールを日本が陥としたときに、講和の話があったそうです。我々はよく学生時代の仲間で話すんですが、あのとき、シンガポールを陥とした時、講和の話があって、講和が成立していたら、いったいどうなったろう。そうするとますます軍閥がそっくりかえって、民主主義もへったくれもない、ちょうどいまある北朝鮮、イラクというような専制国家になっていたんではないか。そしたらその中には、海兵帰り、陸幼帰りがいますから、そのころ、そうなっていたら、お前は海軍大将で、お前は陸軍大将で、俺たちは足下にもおよべん、という話をすることがあります。

要するに今、我々がもっている自由と民主的な権利というのは、太平洋戦争中、死んだ日本人320万人、それから、中国と東南アジアの人がとばっちりくって、死んだのが千数百万人。この人たちの命の上に我々は現在の民主的な権利、自由をもっているということをやはり考えてみる必要があると思います

●戦後、甲府中学でのストライキ

そして先ほど申し上げたように、偉そうなことを言っている人が、必ずしも偉くないということが、戦争が負けていろいろでてきました。軍部の腐敗、政治家の腐敗、官僚の腐敗。そしてそれを明らかにして究明しようという動きも当然出てきます。

卑近な話では、我々、甲府中学の在校生は平日は朝から晩まで特攻機づくりをしていました。学校にいくのは日曜日だけ。学校にいっても授業をするより忙しかったのは校庭での畑仕事です。当時、もう食べ物がほとんどありません。それで校庭をほじくり返し、じゃがいもをつくり、さつまいもをつくっていたんです。それでその次の日曜日に、そろそろ収穫期だと思っていくともうきれいにないんです。聞いたら先生が全部もっていってしまったということなんです。

そして当時の先生方で悩んでいた方も例外の方もいますけど、やはり世の時流に流されて、軍の学校をうけないのは非国民、教練を熱心にやらないのは非国民、自由主義者だ、といってののしり、たたき、けりという状況だったんです。その反面、我々がつくった、食べ物のことをいうのはさもしいですが、育ち盛りではらぺこなんですよ。食うものがなくて。我々がつくったものを先生が全部もっていっちゃった。で戦争が終わった時に、われわれの怒りは爆発しました。同じように、ほうぼうの中学校でも爆発したんですけど、甲府中学が一番先頭をきって、校長やめろ、教頭やめろ、この教師やめろ、と名指しで大ストライキをやりました。食い物のうらみというのは恐ろしいですな。その中で、泣いて謝られた先生もおられます。

それから、50数年たって、泣いて謝られた先生を中心に、毎年われわれはクラス会をやっています。そうして先生は、「君たちのときでよかった、君たちの一、二年上は、3分の1ぐらい死んでいる。私も送り出すために力を貸した。申し訳ない」と今でも言われます。というようなことで中学3年の時に戦争が終わりました。

3、東大時代

●東大教養学部第一期生に

それから何をやったかというと教科書の墨塗りです。全国の学校でいっせいに子どもたちは墨塗りをはじめました。その後、私は、旧制の教育制度では中学校の上は専門学校にいくか、旧制の高等学校にいくかだったんです。戦前、大学は国公私立合わせて、70しかなかったんです。今、4年制の大学は500になっているんじゃないですか。その70幾つの中で、帝国大学という国立総合大学、朝鮮の京城、台北と9つあって、内地に7つの帝国大学があって、あと単科大学がありました。それに入るためには旧制高等学校を経なければならなかったんですが、これは全国で38しかなかったんです。旧制高等学校に行って大学に行くというのが常道だったんです。

旧制高等学校は文科と理科にわかれていました。軍国少年だった私は、少年時代の私は、将来何になりたいかと聞かれて、戦闘機乗りという答えをしていたんです。そう思っていました。飛行機は好きだったし。いずれは死ぬんだったら、華々しく死にたいと思っていました。

ところが、戦争が終わって、目標がなくなりました。次に、なりたかったのは動物学者です。しかし、動物学者になるには旧制高等学校の受験で、理科に進まなければいけません。当時、私の父親が植民地資本の片棒をかついだという理由で、それから軍需産業の幹部であったということで、マッカーサー司令部の命令で公職追放にあって、公職にはつけない、大会社の職につけないので、完全失業です。そうして売り食いをしていきていた時代ですから、高等学校の理科にいくと実験があります。実験があると学校にいかなければいけない。自分で自活するためには理科にいけない。やむをえず、泣く泣く文科にいきました。それは、この教養学部に進むときも同じです。

大学が旧制から新制に切り替わって、教養学部が1949年にできたんですけど、その第一回として私たちはここに入ってきたんです。そのときも同様に自活しなければいけないのでアルバイトに忙しくて、実験に出席しなければいけない理科にはいけない。これで文科にすすみました。文科は当時、二つに別れていて、文一、文二。今は文三まであるそうですね。当時は文一が法学部、経済学部のコース。文二が文学、教育学のコース。どこを選ぶかと言ったら、消去法でいって、文学部はセンスがないからだめだろう、経済学部、僕の嫌いな数学がある、数字がぞろぞろでてくる、これはもうだめだ。法学部、ここででてくる数字は条文の数だけだ、いうので法学部にいくようになったんです。

●自治会、学友会、生協、駒場祭をつくる

文一に入学したとき、ここは何もないわけです。旧制の第一高等学校の校舎だったんです。我々は旧制の高等学校の1年で打ち切り。当時の2年生は最後まで卒業できたんです。そして旧制大学を受けることができたんです。ですから、ここの学内には1949年には旧制の第一高等学校の2、3年生と、それから新制の東大、教養学部の1年生が同居していた。寮は、旧制一高の自治寮で、そこに教養学部生が入って、数がこちらが多いので、共同で寮委員会をつくって運営していたような時代でした。

教養学部に入った学生は、これはにわかづくりのマッカーサーの指令による学校制度変革ですから、準備が整わず4月の開講ができず7月の開講です。7月に入ってみたものの学内には何にも当然組織はありません。今、みなさん方が入学してくると自治会があり、学友会があり、生協があり、なんとか研究会があり、なんとか運動部があり、たいていのものはなんでもそろっているんじゃないんですか。ですから、我々はそれをつくるところからはじめなくちゃなりませんでした。

クラスごとに委員をだして自治会の準備会をつくる。その一方、運動部、好きな者が集まって、サッカー部つくろう、野球部つくろう、本郷の応援をうけての運動部ができる。一高時代の文化研究会の後進のような集まりがある。その代表者を集めて、文化・運動部代表者会議をつくって、これが後に学友会に発展していくわけです。

一方、生活協同組合もありません。一高の寮の購買部がありましたが、これは一高の寮の購買部なのでやはり我々で本郷の生活協同組合の支部ををつくろうというので、とにかくゼロから出発して、何から何まで必要な組織をつくっていかなくちゃならないということで、とにかく忙しかったんです。それでたいていのことをやりました。

年が明けて1950年、ここの構内のもともとの家主である一高では、毎年2月に記念祭という名の学園祭をやっていたのです。そこで教養学部第一期生の我々も、学園祭をやろうということで、一高時代の2月ということをひきついでやろうか、ということですぐ準備をはじめました。ところが、当時の学部長矢内原忠男先生、この方はリベラリストなんですけど一方では、非常に頑固な方でした。学園祭というのはあくまで、学術研究の成果を社会に発表することである。単なるお祭りではない。それが発表に値するかどうか、学校当局が十分に検討しなければそのような行事は認められない。現役の諸君、ごめんなさいね、矢内原先生が生きてこの駒場祭にこられて食べ物屋ばかりだと発見されたら卒倒されるんではないかと思いますけど(笑い)。

矢内原先生の頭の中にはその前年の一高の寮の記念祭があったと思います。まだ占領下です。マッカサー司令部が厳然とそびえています。やはり、当時の一高には反骨の士もそうとうおりました。桃太郎のディスプレイをつくりました。桃太郎はコーンパイプを加えたマッカーサーです。それでつき従っている犬の顔は吉田茂(笑い)、というディスプレイが寮の一室にあります。そのとなりには、はりぼての馬があって、そのドアには万世一系の種馬と書いてある。それで、後、別に毒にもならないようなものもあったんですけど。その桃太郎のはGHQで問題になって、当時の一高校長は危うく首になるところだったんです。

当時、国会ももちろん新憲法のもとであったが、国会以上のものがありました。ポツダム宣言受託に関する政令というのがあるんですよ。私もそれで捕まったので忘れもしないのですが、そのポツダム宣言受託に関する政令325号というのがありまして、占領軍誹謗の罪というのがある。私も占領軍誹謗の罪に問われたのですけれども、そのコーンパイプを加えた桃太郎、それから吉田茂のはまきをくわえた犬というのは占領軍誹謗にあたるんですね。当時、強盗が入っても新聞は、何人と書けないんです。背の高い色白の大男が泥棒に入る、もしくは背の高い色黒の男が3人強盗に入る。黒人兵なんて書いたら、占領軍誹謗の罪になる。そういうこともあったので、初代学部長矢内原先生は、「この学生たち何をやるかわからん、今が占領下というのもよくわかっとらん」、というようなことで、容易に首を縦にふらないわけです。

それで、我々は毎日のように団体交渉をしていたんですけど、そのうち、間にたった学生課長、西尾寛一先生という方の白髪がめっきり増えて(笑い)、それで2月も近づいた。もうこれはだめだ、今年はあきらめよう、ということで、その2月の記念祭はなくなりました。これは我々の仲間では第0回駒場祭と呼んでいます。

それから2カ月後、第二期生が入ってきました。第一期生1800人、うち女子学生7人、第二期生2000人、うち女子学生35人。それでいっきょに2倍以上にふくれあがったんです。ようやく、自治会が成立しました。自治会は全学投票をやって、第一回の投票では流れていたんですが、第二期生をむかえて、規約の投票をやって成立しました。そうして前年に成立していた学友会と自治会、それから新しくできた生協、こういうものが中心になって学園祭の運動がおきました。

●大学におけるレッドパージ反対のたたかい

ところが、一方えらいことが起こってきました。GHQが各大学からアカの教授を追放する、容共教授を追放すると言いだした。イールズという男が派遣されて、各大学をまわって、「赤色教授は追放しろ」、と言ってまわったわけです。

戦争中、軍部に容れられず、自由主義もしくは容共という名のもとに教壇から追放された学者がたくさんいました。矢内原先生もその一人でした。それから教養学部の第六委員会の委員長をやられた木村けんこう先生もそうです。大勢の先生が、戦争中、政府によって教壇から追放され、敗戦の後、ようやく教壇にもどってきて、今度はGHQから追放されようとしているのです。従って、我々学生としてはそれを看過できず、全国的にレッドパージ反対の闘争がわき起こりました。その頃、ようやく全学連の萌芽ができていたのです。

教養学部でもその議論が盛んに行われました。先生方の意見は、「基本的には君たちと同じ、思想の自由、良心の自由、これは占領軍でも侵害してはならない。しかし、反対の方法論は、君たちがもっと慎重に考えなきゃならない」。ところが、こちらは18や19歳、そして、戦争中、いやというほどだまされ続けてきたわけですね。腹は減っているけれどもエネルギーだけはある。で、やはりこれは大ストライキをやろうということで、ストライキの準備をはじめました。10月に、この駒場で大ストライキをやりました。

3900人の中で、スト破りをして教室に入ったものは、だいたい一割弱です。あと3800人の残りの三千数百人のうち、日和見して学校にこない者、しかし、正門、裏門などを固めた学生は2000人以上でしたから、半分以上がピケラインに参加してました。そのピケの間で先生たちと議論していました。先生たちも本当に板挟みになって困っておられて、あのために、命を縮められた先生も何人かいらっしゃるんではないかと申し訳なく思っているんですけど。それで試験をボイコットして、一日目には大学当局は試験を強行したのですが、とうとう二日目にはギブアップしました。同じようなことが全国の大学で行われました。

その結果、レッドパージが大学に関しては、GHQもできませんでした。あと、あらゆる産業分野でレッドパージがおこなわれました。とくに集中的に攻撃されたのが新聞、放送、出版、映画です。東邦の労働組合がレッドパージ反対の大闘争をして、その弾圧のためにアメリカ軍がのりだした時代です。こなかったのは軍艦だけでしたというぐらいの、大ストライキがおこわれました。そういう報道にたずさわる産業からはアカとレッテルをはられた人、いささかでも進歩的と見られた人たち、全部、放逐されました。もちろん新聞からもです。その前に、朝鮮戦争が起こっていたです。それだけにGHQ側も危機意識があったんだと思います。というような教養学部時代だったんです。

●父の死、授業にでられなかった法学部時代

それで、この駒場祭の食べ物屋をみてびっくりするのは、矢内原先生だけでなく、われわれから見ると、やはり、本当に、感慨無量ですね。寮に食堂がありました。そこ登録すると配給があって飯がくえる、もしくは寮に住んでなくて下宿から来て寮の食堂で食おうと思うと、政府発行の外食券をもっていないと食えなかったんです。外食券をもって寮にきても、だされるものはさつまいも2本だとか、ふすま入りのパンが1個だとか、そういう状況でした。

腹はぺこぺこでもとにかく不正と不合理に対する怒りだけは、一人前以上にあったのが、第一期生、第二期生の特徴だったと思います。ただ後で申し上げますけど、その第一期生、第二期生の中からも汚職官僚をだしたということは、同期の者として痛恨のきわみであります。これは後で、東京大学というのはいったい何なのかということについて申し上げたいと思います。

それで私は授業にはあまりでなかったんですが、教養学部では10時間出ました。うち6時間は体育実技、あと英語1時間、ドイツ語1時間、体育講義1時間、倫理1時間、それでおしまいです。後は試験だけ受けました。そして法学部に行ったとたんに、4月22日、父親が死にました。ますます長男としての私の責任は重くなりました。それでデパートにつとめました。ということは毎日出勤です。

今でも、私の仲間、大人の人がよく言うんですが、「この年になっても試験の夢を見るよ。それでちっとも問題が解けないんで焦って夢がさめる」というような話を聞きますが、私は残念ながら、そういう夢を見たことがないんです。というのは試験ができたからじゃないんです。私が見る試験の夢というのは、「なんだ、その試験なら一昨日おわったよ」と言われる夢です。学校行ってないんだから。

これではいかんということで、寮に入ったんです。当時、家は目黒にあったんですけど、駒場の寮は教養学部を卒業しているから入れない、本郷の寮も都内に家がある奴は入れてやらない。それで私が入った寮はなんと千葉県の検見川寮です。歩くの入れて1時間ぐらいかかるんですけど。寮に入って、勤務先のデパートに行って働いて、夜帰ってきて、友だちに夜、どういう授業があって試験はいつだというのを聞いて、「ああそうか、試験の前になったらノート見せてくれ」といって、という生活をやっていました。で、試験を受けにいって、答案用紙をもってきた人が入ってきて深々と頭をさげたら、「バカありゃ、小使いさんだ」、いうようなことが続いていた。

結局、法学部は1時間もでないで、就職試験だけ方々受けたんですが、みんな落っこちました。政令325号違反というのがありますので。中で、一つ内定をくれたのがあるんです。身元調査なら最初にやってくれればいいのに、内定くれた後でここはやったんですね。内定取り消しを私にいってきたのが2月なんですよ。2月に内定取り消しきてもどうにもならないでしょ。それで3月の卒業試験を受けるのをやめて留年しようと決めました。

●A.I.U.への就職と組合運動

留年することに決めたんですが、やっぱり食えない。法学部の掲示板に求人広告がでていたので、見たら、アメリカ・インターナショナル・アンダーライダーズと書いてあるんです。不勉強だから、「アンダーライダーズって何だろう」って聞いたら友だちが「下書き人だ」って。「バカそんなことないだろ」、と字引を引くと保健引受人とある、今で言うA.I.U.なんです。そこ受けに入ったらタイムって雑誌があるでしょ、それをこっからここまで訳しなさい、それで訳したら合格、「明日から来なさい」って言われた。「私まだ卒業してないんですが」というと、「いつ卒業できるんですか。」「追試験を受けたら来月卒業できます」「じゃー卒業試験の時、休み上げますから、卒業してきてください」。で、私は翌日から勤めることになったんです。

社内の事情がわからないから、行き会った人に「あのう、組合事務所はどこにあるんですか」って聞いたんです。「何の組合ですか」「労働組合です」「そんなものここにありませんよ」。それで、私はどっかぼけているんですね、企業があるところには労働組合があると決め込んでいたバカさ加減に気がつきました。

働き始めました。給料は9000円でした。当時の国家公務員の上級職の初任給が9000円。そう安い方じゃないんだけど、IBMの初任給が1万5千円、三井鉱山1万6千円、だいたい大企業が1万円から1万1千円が相場だった。9000円というのは安いほうなんです。入ってみて驚いたのは、私よりも若くて、2年ぐらい前に入ったタイピストの人がいて2万円なんですよ。前に入った人たち調べたらみんな非常にいい給料なんですね。その時から定期採用はじめて、私と同期が9000円のがいるんです。みんな手分けして調べたら、なんのことはない。アメリカ人が来て、ここで営業する、日本人をやとわなきゃならない、給料決めなきゃなんない。“相場はどうだ、えっ高いんじゃないか。聞いたより日本の給料高い。えっ、週給だと思ったら月給?、じゃ安い”、ということで。相場がわからないんで、日本の水準として比較的によくセットしたんですね。そのよくセットした時代に入った人はハッピーなんですよ。俄然、反省した時代に我々はいっちゃったんですね。だから安い給料なんです。

そして私は若い人たちと話して、「これなんとかしなきゃいけないんじゃないか、やっぱり労働組合つくらなきゃいけないんではないか」て言ったら、「他の連中は高給取っているから、労働組合なんて作る気ないよ」「いやそんなことはない、必ず共通の問題点があるはずだ。先輩たちの悩みがなんだか知っているか」と言うと、「わからない」っていう。「先輩たちの悩みは外国資本だからいつ引き上げるか分からない、引き上げられたら元もこもない。ということは、退職金の規程をつくれという、運動・要求が入ったら、あの人たちも絶対賛成するよ。今、退職金の規程ないんだから」。「そうか」ということで、同期の連中が酒飲みながら先輩をくどきはじめたんですよね。そしたら、「確かにそうだ。今、世間に比べりゃ、いい給料もらっていてもぽいとほっぽりだされたらアウト、ましてや引き上げだなんてならアウトだ」ということがありまして、そしてたまたま日本人社員の一番高給取りの人の月給と社長の家の水道料金が一緒だということがわかったんです。

社長の家の水道料金と、一番日本人の高給取りの給料が同じ、これでみんながらっとかわっちゃいましてね。そして労働組合の結成大会組合作って、私が書記長になりまして、損害保健関係ですからその後、全損保、全国損害保険組合の支部になりました。そうしたら、一年、二年して賃上げして、退職金規程も作り、労働協約も作りということで非常にうまくいったと思っていたんですが、本国からのテコ入れがあいまして、企業整備、リストラで、私の属していた損害査定部は、下請けにだして部が消滅する、いうことで私の働いているところが消滅しちゃったんです。働いていたものは失職、たたかって退職金をよくすることでやめざるをえなかった。それでやめました。

4、日本航空へ中途入社。組合委員長に

●日本航空へ中途入社

国会の試験を受けて、調査主事というのを三日間やったことがあるんですが、かび臭い書庫の中で朝から晩まで勉強してろという仕事なので向かないんでやめました。国家公務員がいいなと思ったんですけど、月末から月初めで、二ヶ月分給料もらった。その後、全損保の専従役員をやっていたんですが、その頃子供が産まれまして、子供が人の顔を見るとにたーと笑うんですね、これは偉いことになってきた。このまま全損保の情けにすがってくっているんじゃこの子が大きくなったときどうなっているかわからんと悩んでいて、朝御飯の時に新聞を広げたら、日本航空の中途採用の広告がでていた、ああこれこれと思って、受けに行きました。

法学部なんで法律の試験がありました、法学部の授業1時間もでてないんですけど、試験の問題を見たら、近代民事法における三原則は何か、その変遷についてのべよ。」というのが出ました。契約の自由が基本、野放図にできないので労働基準法や借地借家法なんてのがありますでしょ。それから所有権の絶対、これも近代民法の三本柱の一つなんですけど、これも資本主義の高度の発達の中で修正しなければいけなくなった。同じようなことで、過失賠償責任の問題、これだったら書けると言うことで、書いて、入ったんですよ。そして面接があって、当時の人事部長が「なんでやめたんだ」というから、アメリカ人の下ではたらくのは気が進みませんっていったら、膝を打って「よしっ」ていうんで入っちゃった。

●日航労組委員長に。カラチ、テヘラン、ナイロビへ

日本航空に入って、山崎さんも書いているけど、労働組合運動をやるつもりはなかった。10年なら10年みっちり仕事をして考えようと思っていたんですけど、ことのはずみで、なっちゃいまして。というのは出来たての会社だから矛盾があったんです。私は今の東京支店、東京営業所といっていたんですけど、いわゆる現場ではたらいていたんです。土曜日は5時までだったんです。東京銀座にある本社に勤めている連中は12時で帰っちゃうんです。一週間4時間、拘束時間で5時間違うんですね。どうなんだといったら、「本社も建て前は5時なんだけれども、業務に支障のないかぎり12時で帰っていいんだ」ということなんですよね。毎週業務に支障がないということはそもそも仕事がないということじゃないか、それは不公平だからおかしい。

その他にいろんな矛盾がありました。出来たての会社で、縁故採用多い。そこで、ストライキをやるようにしまして。山崎さんは98・何%と書いていますが、確か98%か99%の賛成率でした。

というようなことで労働条件は大分良くなったんですが、2年委員長やって職場に帰ったらカラチに行け、と。当時の内規ではカラチの任期は2年になっている。2年経ったら帰れると思ったら今度はテヘランに行けと。「テヘランは店がない」といったら、「お前が開くんだ」と言われ。それで、テヘランに行って。二度の勤務の時は1年で返すというのが内規だったんです。一緒に行ったのがみんな帰った後で、僕だけ帰れない。とうとうテヘランに4年いて、今度はナイロビに行け。「ナイロビには店がない」と言うと「お前が開け」と。いうことで、ナイロビにまた4年いて、合計10年、いましたね。

最初のうちは家族を呼んだのですけど、カラチに当時は6ヶ月たたないと家族はよべない。ようやく家族をよんだらインパ戦争だというので引き上げ便に家族をのせて返して、落ち着いたからと家族を呼び戻したら、今度「テヘラン行け」。家族つれていけませんから、家族日本に帰して。テヘランの半分ぐらいは子供の学校のために単身でやって。ナイロビも単身でやったんです。ですから私、子供の学芸会も運動会も見てやったことはないんです。結婚記念日も一緒にいたのは、当時までだと半分以下でしたね。

そんな生活していたんですけど、72年に日航機がニューデリー、ボンベイの誤着陸、それからニューヨークの事故、お客様を亡くならせて。それで大問題になって、その後ろには労使の関係の不安定さがあるのでは、というのが問題になりました。

というのは私を追い出した後、アメとむちで第二組合をつくったんです。それで御用組合との話し合いで物事を決めて、第一組合は徹底的に差別する。第一組合の組合員が結婚しようとすると、結婚式に行こうとする者まで、「お前アカに同調すると思われていいのか。その後の出世のこと考えなくていいのか」、と脅かすまでするような状況だったんですね。そういうことが少なくとも事故の遠因になっているんではないかということが当時、国会で問題になった。

委員の一人の人が「聞けば元委員長を本人の意に反して、10年間、海外にたらい回しにしているということだが、それは本当か」いう質問をして、参考人として出席していた当時の社長が、「その点については至急調べて善処します」と言ってくれたおかげで、帰ってこられたんですけどね。そのころは、ナイロビはもう4年ですから、次は西アフリカのナイジェリアのラオスといううわさがちらほらでていたんです。ラオスに行かなくてすんだのは国会で質問してくれた委員さんのおかげだし、さらには不幸にして事故で亡くなられたみなさまがたのおかげ、と言っちゃ申し訳ないんですけど、事故にあわれた方々が、「お前、今後、こういう犠牲をださないためにしっかり仕事せいや」というおつもりでいらしてくださったんではないかと思うんです。

●会長室部長へ

そして日本に帰ってきたんです。カンリショクとして帰ってきたんですが、カンリショクの字が違いまして、閑で離れるという字です。ずっと窓際なんですが、自分の食いぶちぐらいはえなきゃいけないということで、たまたま顔ができているアフリカ関係、日本でも当時、アフリカ大陸から20近くの大使館があったんです。そこに回って、セールスして、出張、帰国の場合に使ってもらうように話をしてやっていた。そのころ、昔の仲間が偉くなって、一、二年先輩が常務クラスになっています。エレベーターの中で会うと、大学の先輩が「小倉君元気か」って言うから、「元気だけど、あんたたちみたいな寄生虫がいるから稼ぐのが大変だ」というような毒づき方をしたこともありました。

こういうことをやっていたんですけど、このままではどうにもならん。どうせ昔の予算室とかは俺をいれないから、現場でもっと会社の役に立つところだったらどうかっていうことで、それだっから10年たってるけど、かつて知っているからということでナイロビに行っているところに、御巣鷹山の事故が起こったんです。『沈まぬ太陽』ではナイロビに2回行っているが実は3回行っている。読者が何がなんだかわからなくなっちゃうということで2回にしたんです。

6ヶ月経ったら、鐘紡(カネボウ)の伊藤仁さんが、会長含みの副会長になって、「会いたいから顔をだせ」というんです。会ったら、「帰ってこい」という。私は「ナイロビで、現地の人も在留邦人も喜んでくれているからナイロビにいます」といったら、「昨日、日本航空にきて、日本航空のことをよそ者の私が心配しているのに、三十何年勤めているあなたが帰ってこないというのはどういうわけですか」。これは殺し文句ですね。これでもう私はそれほど身を削る思いをしなくてすむと思うのに、日本へ帰って日本航空建て直しといったら私の命は縮まるでしょう。その点では特攻隊と同じだ。

「ところで、伊藤さんあなたは、大西滝次郎ですか、富永きょうじですか。」と聞いたんです。「えー、大西?。富永?」。「富永きょうじというのは陸軍の特攻隊の父といわれた男、中将です。海軍では大西滝次郎が特攻隊の父といわれました。二人とも「諸君だけは死なせはせん。必ず私も後につづく」と言いました。陸軍の富永中将はその後、台湾ににげ、さらに内地に逃げ、内地で天寿を全うしました。海軍の大西は、敗戦の時、海軍の軍令部部長でした。ポツダム宣言受諾の翌日、8月16日、渋谷のナンペイダイの軍令部次長官舎で腹をきって死にました。その時の遺書が「『特攻隊の初志に告ぐ。諸子らよくたたかえり。』しかし、平文でいうと、『負けたのは俺たちの責任だ、申し訳ない』という遺書を残して死んでいるんですよ」。そういったら伊藤さんが、「私は少なくとも富永きょうじではない。大西多喜二朗でありたいと思う」。「わかりました、じゃあ帰りましょう」。精神分析学者の野田正明さんが「歌舞伎みているようだ」といったんですけど、それが心情だったんです。

伊藤さんが入ってきて日本航空の改革をしようとされたんですけど、日本航空は、各政治家、いろんな政治家の利権の巣であり、国会で日本航空のPTAができるというくらい、国会議員の子弟をとっているんですね。スチュワーデスから男子の社員まで。政治献金ができないでしょ。政治献金のかわりにとるんですね。とるのは簡単で、「スチュワーデスなんてどうせ2~3年でやめるんだから、2~3年でやめるんでとれば、恩にきて、便宜はからってくれるよ」いうようなこともある。その他でも、今まで縁故採用がなれっこになっていますから、日本航空に子弟が勤めているもの集まれといえば、国会でPTAができるくらいだと言われたぐらいです。そこで伊藤さんが社内改革をやると利権が暴き出されちゃうということがぞろぞろあるんですね。だから、各新聞、各週刊誌あげて、伊藤さんの攻撃をはじめたわけです。本当にあれは考えてみるときちがいじみた攻撃ですね。

第一の攻撃の力点は、「容共派である、その証拠にアカをナイロビからわざわざ呼び戻したではないか」。それから「会長就任のあいさつに共産党本部にいった」。これ本当なんですけどね。各政党にあいさつしたんですけれども、国会の控え室で、ちょうどその時は共産党の控え室が空っぽだったんで、出直したということなんです。そういうことでいびりだそうとして、伊藤さんも苦労なさって。ただ、諸志だけは死なせはせんという大西滝次郎のつもりでいらしたらお気の毒なんで、「話があるんだけど、もうあの約束はお忘れ下さい。鐘紡にお帰りになりたいんでしょ」と言ったたら、「うん」「その方がいいですよ。鐘紡の人もそのほうが幸せでしょうから。大体こんな腐りきったところにいて、精魂すり減らしたらお気の毒だ。」といって伊藤さんはおやめになった。それで僕の属している会長室というのはまた消滅したんです。A.I.U.の時と同じように。そんなことがあったんです。

●なぜやめなかったのか

それでよく質問されるんですけど、「そんなにいじわるされてどうしてやめなかったのか」。それは「このやろう」と思ってやめてやろうと思ったときだってありますよね。しかしね、やめるとよろこぶやつがいる。東京本社では喜び、その場で祝杯をあげそうなのがぞろぞろいる(笑い)。一方、成田や羽田では、やめちゃったんだそうだ、なんて、ヤケ酒飲むのがいるかもしれない。それ考えると冗談じゃないやめられない、ということですよね。みんなが手を挙げてやめてよかったというのならやめていますよ。しゃくにさわるやつが喜んで、がっかりするやつを悲しませちゃいけないと思ったんです。

私はその後、3回も行ったケニアいうところがありますので、動物学者の道のチャンスがあったんです。こちらの能力は別にして材料だけはふんだんにあったんです。。そこで、動物学の勉強を在職中からしていたのをさらに本格化して、新聞雑誌に頼まれるままに書いたり、本をだしたり、それから写真をとったりして生活をしている次第です。

動物学の勉強をするといっても、世の中にはそうそうたる人がいるのですよね。大学時代から、東大の理学部動物学科で哺乳類を専攻したとかね、京大の理学部動物学科で霊長類研究ジョンにずっと大学院の時もいたよなんて、みなさん専門の人がぞろぞろいる。写真でも日大芸術学部写真学科、東京工芸大写真学科とか。もう一度考えてみますと、その人たちが学生時代にやったって、せいぜい専門課程は学部生で2年、ドクターコース入れても5年で7年。こっちだって、学校出てから30年40ねんやってりゃ、いくらこちが頭ぼけてきたからといっても、完全に対抗できなくても、ある程度はいけるんではないか、いうあつかましさで今がんばっている次第です。

●肩書きは仮衣装

若い諸君に申し上げたい、世の中にいろんな肩書きがありますよね、何とか会社の取り締まり課長だとか、総理大臣とか、そういう団体の肩書きは自分の本来のものだと思わない方がいい。これは、結婚式の時の仮衣装だと思った方がいい。その時はきているけど、時期がきたらぬいで返すんです。それがわからないのがね、しつこく天下りするんです。前の仮衣装より落ちるが、ないよりいいやといい、なんとか公団の取締役になったりね。天下り紹介するのが官房長の仕事の大半だと言われているけど、官房長だっていつまでもいいポストはくれない、段々段々格落ちにする。結局自前の衣装がないままにおしまいになっちゃうというのが組織で働く者の悲劇なんです。くれぐれも仮衣装を自分のものだと思わないこと、そして仮衣装を脱いでも、着る自前の衣装をお持ちになることを、今からこころがけるよう申し上げたい。

5、親から学んだこと

●天知る、地知る、我知る

私の人間形成、戦争という時代が大きく働いたと申し上げました。親からうけた影響がありますね。良かったのか悪かったのか知らないが、親からよく言われたのが、「天知る、地知る、我知る」。どうして人知るがないかというと、人が知らないからこっそりやっても大丈夫だと思うな、と。天は見ている、地面は知っている、それからなによりもお前が知っているじゃないか。だから世の中で内緒ごとの悪いことはできないんだ。「覚えとけ、“天知る、地知る、我知る”だぞ」。これ、いま、高級官僚の親父や今国会議員の親父がもっと声だして大きな声で言っていたら、今の日本の政治はよくなっていたかもしれませんね。

●先憂後楽

それから、「お前は大きくなって、あるいは人を指導するようになるかもしれない、その時になったら一つ覚えとけ、人に先に憂え、人に遅れて楽しめ、これが指導者の最低限の条件だ」と、いうことです。ゆめゆめ、他の人より先に楽をしたり、楽しむことがあってはいけない。

●お辞儀の角度

それから三番目、「お前が大きくなったら、非常に残念なことだけれども、今の世の中では、相手によってお辞儀の角度は変えなきゃいけないことがありうる。しかし、その振幅は最低限にしろ」、と言われました。私は、親父のいうことを痛感したのは、天皇に会ったことなんですよ。私はケニア側でケニアのモーリ大統領が日本にきて、天皇に呼ばれて、今度はモーリ大統領が天皇をお返しに呼ぶんですよね、赤坂の迎賓館を借りて。その時に、ケニア側に入るんですよ、日本人は入れてくれないから。天皇とモーリ氏がならぶでしょ、そしてこっちに控え室があって、時間が来るとレセプションラインを通って、両元首に挨拶して食堂に入るんです。控え室でえらそうなやつがたくさんいるんですよね。なんとか、金バッジをつけってそっくりかえって、そいつらがどうするか、天皇のとこにいって挨拶するでしょ。昭和天皇ですよ。こんなになって。これだ親父のいう振幅は、というのがよくわかった。天皇が今されているように、天皇さんに対してあのぐらいんでいいんだな。というふうにしました。

6、体験から学んだこと

●権力者のいうことを鵜呑みにするな

それから体験から学んだこと。権力者の言うことを鵜呑みにするな。これは、今までお話ししていますから。大体、学生諸君、会社に入ったら愛社心を説く先輩がいますよ。たいていの場合に愛社心を説くものほど愛社心がない(笑い)。私の経験では。戦争中でもそう。今から思うと、愛国心を熱心に説くものほど、その人の愛国心がない馬脚があらわれている。それは見抜いた方がいい。

五味川順平さんが、『人間の条件』の次に、『戦争と人間』というのを書きました。あそこで、シミ耕平というサブ主人公に、治安維持法でつかまった兄貴が言う言葉があります。「人間は、一見、もっともらしいことをいうやつをすぐ信じちゃダメだよ」という一節があります。そのとおりだと思います。全部疑えと言うことではないですよ。ようするに、偉そうに愛社心とか愛国心とかいうのには眉に唾をつけた方がいいということです。

●人間は弱い。だから団結と連帯が必要だ

それから、「人間は弱い」。とくに日本人は弱いと思います。これは、言いたかないですけど、第二次世界大戦でフランスがナチスドイツに占領されたとき、歴史に残るレジスタンスがありましたね。米軍占領下のベトナムでもレジズタンスがありました。日本で、フランスのようなレジスタンスができただろうか、これから、できるだろうか、私は非常に悲観的です。密告の連続でできないんじゃないか。もし、それができるくらいなら、日本でこれだけ、組合分裂で第二組合ができるはずがないんです。ですから、その点、もっと日本人は自分たちのことを考えなきゃいけないというふうに思います。

よく、私は求められると話をするんですけど、東アフリカで学んだことの一つなんですけど、今、私の趣味と実益をかねて動物を観察しますよね、肉食獣は草食獣を食べないと生きていけないです。ライオンが一番襲うのは一発で肉がたくさんとれるシマウマやバッファローなんです。大体200キロ近い、メスラインは100キロから150キロぐらいあるんですが、体重900キロのオスのバッファローを襲います。何頭かがかりで襲います。しかしバッファローは群で生活しています。これと見つけたのと挑発しておびきよせて襲うんですけれども、他のバッファローは気がつくとそれを奪回にくるんですよ。それで、バッファローがライオンとけちらして、そしてバッファローがしつこいんですね、ライオンが木に登るまでおいかけて、そして木下で期をゴツンゴツンやるんです。そして他のバッファローは、皮膚をさかれてよろよろと立ち上がったバッファローを舐めてやるんです。それで、群に収容して動いて行くんです。

チーターの体重は50~60キロなんですね。ですから、30キロぐらいのトムソンズガゼルだとか、グラントガゼルや、70キロぐらいのインパラは適当な餌なんですが、適当な餌がないときにはヌーを襲うんです。ヌーというのは牛かもしかですね。バッファローを小型にした格好をしていますね。あれのない十が約200キロあるんですよね。襲うほうが50~60キロ、おそわれるほうは200キロ。

ヌーはむれているでしょ、チーターが近づいてきて時速100キロぐらいで走ってくるとしますね。俺のほうめがけてきたと思えば、たとえば5頭ががっしりね並んで頭下げて、きたチーターを蹴散らすことができるんですね、やろうと思えば。だけど、ヌーはそのやり方を知らないし、そんな気もないからバーと逃げるだけ。そしてみすみす、チーターよりも大きな体をしながら、一頭が殺されちゃう。そして他のヌーは「あー、今日は俺の番じゃなかった、よかった」それだけなんだ。

私は、現在の日本の労働組合が、リストラの名の不合理な首切りに抵抗できない日本の労働組合はヌーじゃないかと思うんです。やはりバッファローにならなきゃいけないんだと思うんです。だから、人間は弱い、お前ね、第一組合に残っていると出世もできないよ、それから正論はいたって世の中通らないんだから、まあ身のため考えたほうがいいんじゃないか、とかね、いうどうしてもみんな負けちゃうんですよ。だからこそ、お互い支え合う仲間が必要なんだし、それからお互いの信義も必要なんです。人間は弱い、だから、団結と連帯が必要なんです。

●必要なこと=冷静な頭脳と温かい心

それから必要なことは、冷静な頭脳と温かい心。これ逆の人がたくさんいるんですよね(笑い)。だけどそうでないようにしたいということです。

7、東アフリカから学んだこと

●自然における人類の位置

要するに地球上に数百万種類いる生物、哺乳類だけでも4000種類~5000種類います。人類はたまたまその中の一種類にしかすぎないんですね。それがサファリといって動物を見て歩きますよね、自動車に乗って。よく思うんですけど、我々車という鉄の箱に入って、ライオンだとかシマウマだとかキリンを見ているけれど、今からわずか、1万年前か2万年前は、この外側にいたんです。向こう側にいてシマウマの死骸をハイエナと争いながら、くってたんですよ。いぼイノシシと並んで草の根っこ掘ってたんです。それがいつのまにかこっちにきたもんだから何か特別な存在になったと思っちゃって。だけれでも本当はそう、完全にこっちにきちゃったって、意識も身体の構造も哺乳類の一種にすぎないんです。たかだかこっち側にきちゃったというだけで全世界が自分たちのものになったような錯覚を起こすのは、やめないと、人類総自殺になっちゃうんじゃないかと思うんです。

ここで声を大にして訴えたいといいのは、そういう認識が深まってきて自然を大切にしようという運動があるのは非常にけっこうなことなんですけど、その人たちが自然保護と称しているのは、私許せません。保護というのは力の優位にあるものが、劣位にあるものに対して使う言葉です。自然保護をするほどそんなに人類は偉いのか。その自然保護という言葉自体が人類の大きな思い上がりだと思います。だいたい幼稚園の保母さんは園児を保護しますけど、幼稚園児が保母さんを保護しますか。それと同じようになことが、なんとかに優しい、地球に優しい、環境にやさしい、ということがあるんですが、これも力の優位にあるものが劣位にあるものに対しておこなう、あらわす感情、もしくはおこなう動作です。被疑者に優しい、警察官・検察官はいるかもしれないが、検察官にやさしい被疑者・容疑者はいない。だから、地球にやさしい、環境に優しいという言葉も思い上がりなんです。地球に従順な、環境に従順なということをいわなければいけないと思うんです。

●異文化への理解の必要性

異文化への理解しないととんでもない思い違いがおきる。私はナイロビに行きまして、一番先に、人を雇わなければならないので、メッセーンジャーボーイを雇ったんです。この人はよく働くとってもいい男だったんです。ただ一つ不満なことがあったんです。事務所に早くから出て、新聞を整理して、書類を整理して、電報も整理してやっているんですが、私がいっても挨拶をしないんです。私、たまりかねましてね、2週間くらい立って、「私はお前さんの働きぶりに満足しているが、たった一つ考えてもらいたいことあるんだ。」「何ですか」「俺が朝出勤してきたら、あいさつしろよ」「あらしていいんですか」「どうしてだ」「私の部族では、じょうじょう(?)から声をかけられるまで声を発しちゃいけないんだ」という。“はーそういえば、日本の江戸時代でもお殿様から声がかけられるまで、こっちが声だすのは失礼というのがあったなあ”「ごめんごめん。人が先に入ってきたら、グッドモーニングとかグッドアフタヌーンとかいえ、言った方が我々のコミュニティでは、少なくとも日本人の社会でもイギリス人の社会でも礼にかなっている」「そうですか、ならばわかりました」。

これ聞かないでいくと、大変なことになりますよね。同じようなことがたくさんあります。それから、文化が違って、向こうの行動が理解できないと、人間って、必ずしも善意にはとらないんですよ。悪意にとっちゃうことが多いんですね。その点で、異文化に対する理解は努力しなければいけない。

●別の角度から日本の社会と日本人を見る必要性

これは、日本にいると森にいて木を見ずになる。私がナイロビにいるときに日本航空の女子社員が何人か旅行にきて、私が手配してサファリにいって、帰ってくる。私が「どうっだった」ときくと「おもしろかったです」「何がおもしろかった」と聞くと、「動物もおもしろかったけど、マサイもおもしろかった」という。「どうしてだ」、「マサイはいまでも世襲制の酋長がいるんですね」「いるよ、でも日本だっているじゃない」「日本には……。いました」(笑い)。こういうことがあるんです。

8、東京大学とは、日本国にとって、日本国民にとって何なのか?

現在、国立大学は99あるんですよね。東京大学だけが法律上特別な存在ではない。社会的には幸か不幸か特別な存在なんです。一つは歴史の重み、一つに遺産の問題、一つには予算の問題(笑い)。歴史の重み、これはおわかりいただけるから省略します。それから遺産の重みというのは、歴史の重みと重なり合いますけど、研究資料がたっぷりたまっているということですね。研究の成果がたまっていること。予算の問題で言うと、おそらく学生あたり一人でわると一番多い。大分身軽にはなっていますけど、例えば宇宙研を手放して、野辺山の天文台も東大のものじゃなくなったけれども、予算的にも大きなものを使わせてもらっています。なんのために東京大学にそれだけ重みがあるのか。

これは、帝国大学令が出たときには、「もって学問のうんのうを究め、国家有為の人材をうんぬん」というのがあるんですよね。てっとりばやく言うと高級官僚養成というのが大体の要請で帝国大ができた。その点で、功もあれば罪もある。確かに功もありましたが、少なからぬ罪もある。この前の太平洋戦争が終わったとき、これは軍部の暴走によって戦争が始まり、無謀なたたかいにより負けたんだと言われてますが、私の死んだ親父は、これも東京帝大法学部の出身だが、「日本を滅ぼしたのは、帝国陸軍と帝国大学法学部だ。東大法学部は亡国の学部だ。お前、それを心しておけ」と、僕に言っていました。僕はさっきの消去法でいく方法がないのでいったのですが、その亡国の学部出にならないようにしろ、しかし私はこのごろ新聞を見るたびに親父の言うことは少なくとも法学部に関するかぎりあたってきつつあるんじゃないのかと思わざるをえない。

東大の学生のためになんでそんなに国民の税金が使われているのかといったら、国のためよりも国民のために役にたつために、国民は税金をだしてくれているんではないでしょうか。まして、立身出世のため、天下りのために国民は東京大学の税金を出しているわけじゃないと思います。その点やはり、お金を出してくれているスポンサーである国民に役にたつ、学問とそれからそのための良心を今後も持ち続けていただきたいと思います。

ちなみに私の息子がこの駒場の門をくぐったのはもう22年前のことですけど、私は、まかりまちがっても法学部にいくな、法律・経済・文学というのは、学校に行かなくてもできる。大学に行くんだったら、観測設備と実験設備の必要な学部へ行け。法律・経済・文学、これはやる気と本さえあればできる。ここで文科系の人がいたらお許し頂きたいんですけど(笑い)。ということで、そもそも医者から文学者になることはできる、しかし文学者が医者になることは本当に不可能に近いほど困難だ。観測設備と実験設備の必要なところへ行け、それからでも遅くはないと言うんですけど。その時に東大法学部の功罪を言ったら、親父の言うのはわかる、仲間で法学部を希望しているのは立身出世意欲が強いのがパーセンテージとしては多い。今のここにおられる文一諸君にはいないと思いますけどね。

くどいようですけれども、東京大学の設立の主旨は当時つくった明治政府が国と政府のためというふうに言われたかもしれないが、現在の日本においては、国民が東京大学に期待するのは国民の側にたった学問、知識をしてくれるところであろうと私は思っています。学生諸君はいろいろなことをして、苦しい道で生計費を稼いで雇われたり、自分で経営したり苦労するだろうけど、東京大学で学ぶこと、学んだことは、国民のために還元するんだという観点をぜひもっていただきたいと思います。話は長くなりましたけれど、これで終わらせいただきます。どうもありがとうございました。(大きく長く続く拍手)