プレゼン・交渉術-生島流の極意

明るく親しみやすい話しぶりの生島氏だが、子供のころは人前で話ができなかった。だが大学を中退して渡米し、生きていくために自己アピールするようになった。その経験から、「その気になれば何歳になっても変われる」が持論になった。

駆け引き不要、素直に伝える

癖や表情まず自分を知る
喜怒哀楽、人間くささを

■音読する
「新聞を声を出して読んでみる。慣れたら録音して聞いてみると、話し方の欠点が分かる」
文筆の音読と聞くトレーニングを勧める。しやべり方の癖や聞き取りにくい点を知るのが第一歩になる。一年くらいかけるつもりで鍛えよう。一冊の本の内容を三分、五分、十分と時間を決めて要約するのも患い。わかりやすい文筆と伝わりやすい話し言葉の違いがわかる。好きな訝会者やタレントの口調をまねてもいいだろう。
■場数を踏む
「うまく話すにはやはり場慣れが必要。十人、百人など規模別に話のトーンや内容をどう変えていくのがいいか、身をもって知るのが一番」
社内行事の司会や幹事を積極的に引き受けよう。プレゼンテーションならば、周囲からうまいと評価されている人に、リハーサルを聞いてもらうのも有効だ。
■表情を鍛える
「話の中身や声に気を取られがちだが、表情も重要な要素。表情豊かにするには顔の筋肉を動かすことが必要」
鏡に向かい、びっくりした頗を作ったり、目を交互にゆっくり開けたりしていると皿流が良くなり、類の筋肉が緩んでくるという。笑っているつもりなのに、そうは見えないといわれる人は、一度試してみるといい。
■斜め横に座る
「正面で向かい合うより、斜め横に座る方が自然と話に入りやすい」
初対面の人と面と向かうのはどうしてもプレッシャーを感じる。応接セットならば正面でなく、コーナーを挟んで斜め横に座る方が話しやすい。相手のちょっとした仕草をまねると、親近感をもってもらえると思う。
■構成を考える
「話の構成は起承転結になるようにとよく言われるが、プライオリティーの高いものから言葉にするべきだ」
プレゼンの時間をどれだけもらえるかわからない。興味を持ってもらえなければ、肝心なことを言う前に「もう結構」と言われてしまう。最初から自分の言いたいことをぶつけたい。後々の関係を考えると、説得するのが困難と判断したら深追いしないことも大切だ。
■ゆっくり話す
「畳み掛けるように話すのでなく、相手に真意が伝わるように間を取ってゆっくりしゃべる」
うやむやな点を隠そうとして、畳み掛けるように話すとかえって墓穴を掘る。語尾を抑え、相手に考える時間を与えるために間を取りたい。
横文字の多用も考えもの。相手をけむに巻くような方法は、誠意ある対応とはいえない。喜怒哀楽を交え、人間くささを出す方が効果的とみる。
■客観視する
「自らを俯瞰(ふかん)して客観的に見ることができる人は強い。他人の評価は自己評価より一ランク低いと考える」
服装など外観を含めて個性を売り物にする人も多い。だが、独りよがりに終わらないために、自分自身を厳しく品定めする能力が欠かせない。

今蘇る、是川銀蔵の相場人生

第一回 「プロローグ-資本主義は崩壊せず」

今から約4年半前の平成4年(1992)9月12日、日本金融界の巨星が逝った。その男の名は、是川銀蔵。何度も大相場を演出し兜町を沸き立たせた男の、95年の生涯だった。

----中略-----

<七転び八起き>

是川氏の生家は兵庫県赤穂の貧しい漁師。7人兄弟の末っ子だった。明治45年(1912)、高等小学校を卒業した14歳で神戸の貿易商「好本商会」に丁稚奉公に出る。きびしい仕事の合間にソロバン、簿記を独習して上昇を目指すが、突然に商会が倒産。是川氏はわずか30円の退職金を持って知人がいるロンドン行きを図るが、大連まで行った時に第一次世界大戦が起きて目的が適わず、日本軍の後を追って放浪の旅をした。やがて、当時日本の商人が活躍していた青島で軍の御用商人や地金屋となり、持ち前の商才を発揮して大儲けした。が、その儲けたお金を孫文の中国革命軍に貸して返らず無一文で帰国。大阪で鉄とメッキの会社を設立し、関東大震災が起こるや、亜鉛鉄板の買占めで大儲けをする。だが、昭和2年(1927)の金融恐慌でまた無一文になった。

身の回りの品を除く私財のすべてを債権者に提出し、子供4人と妻の家族5人を引き連れて大阪から京都の嵐山に引き籠もってしまう。それ以後の生活は自伝によると、「京都の嵐山で間借りした貸家の家賃は3年間払えなかった。そんな貧窮生活の中で、私は毎日のように嵐山から大阪の(中之島)図書館に通いつづけ、経済関係の本や資料をあさりつくした」と語る。ここで経済学のイロハから勉強し、「資本主義は崩壊せず」と確信。その勉強の結果を試そうと昭和6年(1931)の34歳で、70円を借金して大阪北浜市場に乗り込み、株の売買をスタートさせたのである。

その後、敗戦により財産のすべてを失った昭和21年(1946)、裸同然で朝鮮より帰国した是川氏は戦災工場の解体仕事から出直しを図る。そして昭和35年、池田内閣の所得倍増計画を見てまた株売買を始めた。地価高騰を予測して数十万坪の土地を買い、大阪・泉北ニュータウン用地に買収された時、そこが5倍に高騰し、仕手戦の豊富な軍資金を得たのである。

<大勝負「是銀買い」>

そして昭和51年(1976)、「いよいよ思いきってやるか」と、6億円を投じて大勝負に出た。狙ったのは低迷する「日本セメント」株で、政府は不況対策に必ず公共投資を行うと睨んだからである。この思惑はみごとに的中し、30億円を儲けた。続いて「同和鉱業」株に勝負を仕掛けたが、結果はあまりかんばしくなく、元手30億円だけが残った。「もう株はやらん」と自戒したものの昭和56年、住友金属鉱山の菱刈金山に大金脈発見の報道を目にし、血が騒いだ。証券会社を陣頭指揮し「是銀買い」というネーミングがつくほど激しく買いまくったのである。

何といっても是川氏の相場人生のハイライトは、この住友金属鉱山株で200億円の利益を上げ、昭和57年(1982)の長者番付一位に踊り出たことである。所得額は28億9000万円。当時の新聞は、「これまで全国一位は会社オーナーか土地長者が占めてきたが、今回は“異色の人物”の登場となった」と伝えた。是川氏の自伝によるとこの当時のことについて、「私が長者番付の一位になったからといって、巨万の富を得たと誤解してもらっては困る。そもそも、日本の税法では、株で大儲けをしたからといって巨万の富を築けるような税制の仕組みにはなっていないのだ。私は金儲けを株でやろうとした。そして、実際に儲けた。ところが、税金という落とし穴を見逃していた。今日までに税金だけで、三十数億円も持っていかれるのだから、ひどいもんだ」と語っている。よほど、日本の税制・大蔵省には腹を据えかねていたようである。

是川氏は長者番付一位となったものの、決して華美なぜいたくはせず、生活はいたって地味であった。昭和54年(1979)には、恵まれない環境の子供に学費を提供する「是川奨学財団」を設立するなど、私欲を忘れた質素な生活をおくっていた。自家用車もなく、天ぷらそばを食べ、服装はいつも“田舎の爺さん”風。稼ぎの大半は、前述の「是川奨学財団」に寄付している。是川氏をモデルにして小説『最後の相場師』を書いた作家・津本陽氏は、「是川さんは、金を儲けてやろうと思っていたが、金そのものが目的ではない。金に執着はないから、身に付かない。そもそもが貧困だったせいか、金に価値を置かず、むしろ敵意を持っていた。何億張っても平然としている。失敗すれば頭を使って又やればいいという考えです。こんな勝負師は他にいません」と語っている。

第二回 「株に人生をかけてやる」

<貧しさの中で見た父の尊さ>

是川氏の生まれ育ちは、一言でいえば「貧しかった」といえる。氏は明治30(1979)年、兵庫県赤穂の漁師の7人兄弟の末っ子として生まれた。漁師では7人の子どもを養うことができないと考えた父は、氏が三歳のときに神戸に出て、二間間口の店舗を借りて魚屋を始める。しかし、それでも子沢山の生活は養いきれず、生活は苦しい。子ども時代の脳裏に焼き付いている父の姿は、家賃の取り立てにくる大家さんに「もう少し待ってくださいと、何度も何度も頭を下げていた」というものだった。

そんな貧乏暮らしの中のあるエピソードで、氏は「自分も大人になったら父のような人になるんだ」と思ったことがあった。ある宵宮(よいみや)の晩に、父の魚屋に3匹5銭のイワシを買いにきた6人家族のおかみさんがいた。そのおかみさんに向かって父は、「これ一盛りじゃ。おまえさんのところは子どもが三人おるじゃないか。せめて祭りの晩ぐらいひとりあてにお頭付きの魚を食わせてやってくれ」といった。その一盛り分5銭で二盛りのイワシを包んでやった時の父の姿。そのことを自伝の“あとがき”において、「自分は大家からいつも立ち退きを迫られ、家族は芋粥と残りものの魚しか食えない貧乏生活をしながらも、貧しい人を見たら、お金がなくても商売の魚を持って帰させるような優しく、あったかい父。そのおかみさんを送り出す父の後ろ姿を見ながら、父は偉いなあ、と尊敬させられたことを幼心にも身にしみて憶えている」と語っている。

<目指すは豊臣秀吉>

明治45年(1912)、是川氏は高等小学校を卒業すると、口減らしのために神戸の貿易商「好本(よしもと)商会」に丁稚奉公に出る。好本商会の主人・好本督は、主にイギリスを相手に毛織物などを輸入し、日本から手芸品などを輸出する個人経営の貿易商だった。上の6人の兄弟も家族の生活を助けるため小僧奉公に出ていたので、14歳の氏も当然のように兄達と同じ道を辿ったのである。朝6時の起床から始まる厳しい小僧仕事の合間や、疲れた体にムチ打って夜学にも通い、毎晩深夜におよぶまでソロバン、簿記、会計を始め、社会学、経済学までも独習を続けた。休みなしで働きながらも、「いまは下働きの小僧だがいつか必ず天下に大号令を出してやる」と、いつもそう心に秘めていた。

また忙しい仕事に追われながらの当時の唯一の楽しみは、朝日新聞の朝刊に連載されていた新聞小説「豊臣秀吉」を読むことだった。尾張の国(現在の愛知県〕の貧農の小倅から身を興し、ついには天下統一した豊臣秀吉に将来の自分の姿をダブらせ、いつか「天下を取る」と、そう心に誓っていたという。秀吉の人間としての業績に感動し、理想人物として尊敬していたのである。「ワシも兵庫県の片田舎の貧乏漁師の倅で小学校しか出ていない。しかしそんなことはちっとも気にする必要などない。秀吉だってワシと少しも変わらない人間じゃないか。ならワシにだって秀吉くらいのことはできるはずや。絶対ワシも天下をとってやる」。そんな自分の将来に向かって壮大な夢を持ち、意気揚々としていた少年であった。

<独立、海外雄飛>

ところが、大正3年(1914)春、住み込み先の好本商会は突然、多額の負債を抱えて倒産してしまう。債権者に追われる主人の惨めな姿を見て氏は、「いくら懸命に働いても、人に使われていては会社が倒産したら失業だ。こんなわりに合わはいことを短い人生で操り返していては、とても“天下を取る”ことなどおぼつかない。どうせやるならワシー人の力でやってみよう」と一本立ちを決意。それが16歳の時で3年間働いた末の退職金、わずが20円を持ち、それを旅費に反対する両親や兄弟を押し切り海外雄飛をくわだてて日本を飛び出したのである。

まず当時の世界経済の中心・ロンドンをめざした。こんな一見突飛にみえる行動も、神戸という貿易港で育った土地柄と貿易商に奉公した氏にとっては自然の行動であった。しかし、シベリア鉄道に乗るため大連に着いてすぐ、第一次世界大戦が勃発し、ロンドン行きの計画は適わなかったのである。これが波乱万丈の人生のスタートであった。ロンドン行きから方向を変えて中国・青島へ行き、大正8年(1914)から大正5年(1916)年末の間、氏は持ち前の商才を発揮し、日本軍の御用商人や地金屋になって大金を稼ぐのである。儲けた金は当時では大金の3万円にもなったが、それを孫文の中国革命軍に貸して返らず無一文で帰国。その後、大正10年(1921)に大阪で「大阪伸鉄亜鉛メッキ会社」を経営することになる。

<震災特需に先手>

大正12年(1923)9月1日の関東大震災発生直後に出た朝日新聞の号外タイトル『横浜大震災、津波の危機迫る』を見て、「地震で横浜が全滅なら、東京も壊滅的な打撃を受けているはずだ。家を壊され、焼かれたりしたら何よりもまずバラックを建てたりしなければならない。そのためにはどうしてもトタン板と釘が必要になる」と判断。全社員を社長室に集め、みんなに小切手を持たせ、トタン板、ブリキ板、釘を買ってこい、と買い占めを命令した。あくる日、氏が予想した通り、トタン板の価格は大暴騰して大儲け。この大儲けでそれまでの借金はすべて払い終えたが、商売とはいえ人の不幸で金儲けできたわけで、少しは社会に還元したいと思い、儲けの半分を大阪府に寄付した。年号が昭和に入っても順調な経営を続けた同社だが、ちょっとしたきっかけで今度は試練の道へ突き落とされることとなる。それは氏のまったく予期せぬ出来事からであった。

<金融恐慌でドン底生活に>

昭和2(1927)年3月14日の衆議院予算総会で、当時の大蔵大臣・片岡直温の発言に端を発した金融恐慌が起きたのである。当時のことについて自伝によると、「この当時、私は三つの銀行と取り引きをしていたが、運が悪いというのかなんというのか、私の預金銀行だった二行は取付け騒ぎの中で倒産、借金していた野村銀行は生き残った。そのため資金繰りが生き詰まり、昭和2年の年末に倒産してしまった」。青島から引き上げてきたときと同じように、また無一文になったのである。その結果、子ども4人と妻の家族5人を抱えて、大阪から京都の嵐山に引きこもりドン底生活を送るようになった。

<三年間の猛勉強>

ときの大蔵大臣・片岡の失言から始まった金融恐慌だったが、じつはこの時、氏の頭の中には避けて通れない大きな疑問がわき起こっていたのだった。「この経済パニックは、マルクス、レーニンが説いている、資本主義崩壊現象の第一歩と違うやろか・・・」。氏はそれを確かめるため、なおかつ将来の自分の生きる道を見つけるため、京都から電車で大阪の中之島図書館に通い必死で経済学のイロハから猛勉強をし始めた。図書館から返った後も毎晩、家で12時、1時過ぎまでノートを整理し、自分だけの資料を作っていたという。あるゆる専門書を読み、そしてさらに世界各国の十数年に渡る統計を調べ、物価、景気、株価の変動や消費者動向などを徹底的に分析した。こういった生活を夢中で3年間も続けたので、10キロも痩せてしまったが、自分なりの結論が徐々に見えてきたのである。

<妻の内助で株式市場にデビュー>

そして、「資本主義の経済変動には時代を超えた原理的な一定のリズムがある。私が飲み込まれた金融パニックも、この経済変動のひとつの波に過ぎない」という結論に至った。その結果、「資本主義は崩壊せず」という確信を得て、またそれと同時に、「資本主義経済のもとで起こる経済変動には、一定のリズムがあり、株式相場がそのエッセンスになっている」ということも発見したのである。 それならば、これまで勉強し、体得したものを株式の世界で生かし、これからの人生の活路を開いてやろうと思ったのは当然のことであった。そして、是川氏は「株に人生を賭けてやる」と、決心したのである。しかし、株式投資の元手となる金がない。倒産して3年間も収入なしの男に、借金する先などあろうはずがなかった。もはや女房に頼むほかなく、「どうしても株をやらせてくれ。そのためになんとかして元手のカネがいるんや。申し訳ないが幾らでもいいからカネを借りてきてくれ、頼む」と懇願したのである。そして黙って氏の顔を見つめながら話を聞いていた妻は、その数日後、「これ以上はなんとしてもできません。これで気のすむように好きな仕事をしてください」と、どこでどう作ってきたのか70円をポイッと渡してくれたという。これは氏を信じ切っていたからこその行動だったのだろう。

この時、是川氏34歳。昭和6年(1931)、妻が工面した70円を元手に初めて株式市場にデビューした。そして平和不動産の前身である「新東株」(東京証券取引所新株)で百倍の利益をあげ、株式投資の世界へ身を投じていくこととなったのである。

三回 「人脈を大事にして金脈を探る」

<最低保証金200円、元手は70円>

会社の倒産から3年間も収入がない男に、株式投資の元手のための借金をする先などはあろうはずがなかった。もはや妻に頼るほかなく、金の工面を懇願したのである。そして昭和6年(1981)、34歳の是川氏は妻がやっとこさ工面した70円を株式投資の元手に株式デビューしようとしたのである。 ところが当時、株価の一ロの売買単位は十株になっており、そしてその十株を売買するのに保証金として200円が必要だったのである。ところが元手は70円のみ。是川氏の自伝によると、「苦心して(金を)作ってきてくれた女房にそれ以上の金を作れとは、とてもいえなかった」ようで、「女房がここまでやってくれたのだ、70円あれば十分ではないか、あとはこの力次第、なんとでもできる」と考えていったとある。

その70円を懐に入れて向かった先は、金田辰藤商店、大阪株式取引所の仲買人・福田堅一郎氏(後の一吉証券社長・故人)の元であった。この突然の訪問に、なにごとかといぶかる福田氏に是川氏は、「きょうから株式投資をやろうと思うんやけど、この70円で相場をやらせてくれ」と頼んだ。福田氏は、「最低保証金が70円ではどうにもならんなぁ」といい半ばあきれ気味で渋い顔をしたという。「せめてその半分(100円は)なんとかなりませんか」という福田氏に対して、是川氏は「あんた相当高い月給をとっとるんだろうから、80円ぐらい何でもないだろう。30円ぐらい立て替えたってバチはあたらんぞ」と言い返したという。

是川氏がこんな強いことをいえるのも、福田氏との出会いの経緯からであったと思われる。是川氏が大阪で会社を経営している時分、福田氏のお姉さんの婿に数千万円の損害をかけられ、会社の倒産原囚のひとつにもなったのである。その時、福田氏が是川氏のところへその婿をつけてきて“わび”を入れにきて以来の付き合いであった。そんな経緯もあり、是川氏は株式市場で勝負をしようと決めた時、売買は「あの男に頼んでみよう」ときめていたのである。

「損をしたらどうしますか」という福田氏の問いに是川氏は、「ワシは絶対に損はせん。(売買で損をした時に預ける保証金は)70円でも余分なものだ。ただ、それで格好がつかんというのなら30円を足して100円にして売買できるようにしてくれ」といった。福田氏はあきれ返っていたが、「なんとかしましょう」と承諾したという。

<連戦連勝>

この二人の出会いは、あまり歓迎すべき出会い方ではなかったかもしれないが、株式投資をするにあたって株の世界に人脈のなかった是川氏がたよる術は福田氏しかいなかったのである。例えそれが歓迎されないような出会い方、どんなささいなきっかけからでも、このように人脈をうまくたどって大事にしていけば、「金儲け」のネタをさぐることができるという証しがここにある。 この是川氏が株式デビューをはたした昭和6年という年は、東北地方に大凶作が襲った年。そして9月には満州事件(柳条湖事件)が起こり、日本国内外において軍部勢力の増大が目立ち、日本が国際的孤立化にすすみつつある時代でもあった。また12月には、戦前最後の政党内閣といわれた犬養内閣(後の5・15事件で暗殺)が誕生し、犬養首相は就任早々に金輸出再禁止を断行した。これに引きづられ株式市場はいっせいに急騰、是川氏が買っていた「新東」(東京証券取引所新株の略)は、その年12月10日の119円50銭から、翌11日には135円30銭、さらに12日には143円50銭と大暴騰していったのである。

この後も是川氏の売買は連戦連勝、百発百中の当たりを繰り返していった。この派手な成功ぶりに、世間から大阪の北浜に不思議な男が出てきたといわれ、その評判は東京の兜町でも広まっていくことになるのである。

パッケージ・ジャパン大沢正彦

フリーハンドの買い手の有利さ

競合他社が、今後の戦略をどうするか思いあぐねているときに、小さな所帯であった会社の営業体をバッサリと切り落とすことにより良いとこ取りが可能となり、成功すること。

銀の弾丸

俗に,ソフトウエアの開発プロジェクトにおいて,どんなに困難な課題も一気に解決できるような,幻の手法や理論のこと。
ソフトウエア技術者のブルックス(Frederick P. Brooks)が 1986 年に発表した論文「No Silver Bullet(銀の弾丸などない)」が直接の語源。「銀の弾丸は狼人間を一発で倒せる」とする欧州の伝説から,「魔法の解決策」をいう。

インファントマッサージ【infant massage】

〔インファントは乳幼児の意〕
親が乳幼児に施すマッサージ。乳幼児の精神状態を安定させ発育を促す。インド式・スウェーデン式のマッサージ手法に,リフレクソロジーやヨガなどを組み合わせたもの。ビィマラ=マクルアー(Vimala McClure)が,インドでの看護経験をもとに提唱。

ピグマリオン効果

上司が部下の可能性を信じて鼓舞すると、部下の能力が本当に伸びて期待通りの成果を上げるといった現象のこと。

期待されることで部下のモチベーションが高まり成果につながる。語源はギリシャ神話にある。キプロス王ピグマリオンが自らを彫った女人像に恋し、彼女が本当の人間であることを願い続けた。その姿を見た神が熱意に打たれ彫刻を本物の女性に変えたという。ピグマリオン効果は部下育成における重要な要素として知られている。阪神タイガースの星野仙一監督がチームのメンバーを上手く鼓舞して士気を高めているのは、このピグマリオン効果に当たるとして再び注目を集めている。

編集長インタビュー – 堺屋太一

経営者たる者、周囲の動静、世間の甘言に惑わされて安易に流されず、「好き」なことを志にし、常に楽観的に「運」を儒じて目標実現を目指す。人間としてごく当たり前で最も素朴な発想こそ、経営者の絶対条件だと言う。元経済企画庁長官として国政に関わった身なればこそ、昨今の日本を憂う。だが、現場経済に関する限り、むしろ力を発揮する条件は整っているとも。あとは、経営者の素養次第。筋の通った強烈な“社長”の登場が待たれる。(聞き手は本誌編集長、奥寺憲穂)

「好き」を見極め、惑わず運を信じる

楽観論で目標実現に挑むのが経営者

世の中に対する不満、その「憤り」こそが経常者のカ

憎まれることを怖がらね人物でなければ、務まらね

世間に流され、「着手容易性」に委ねて責任転嫁する

それが、多くの経骨者が陥りがちな事業失敗の罠

【問】今、非常に厳しい時代ですが、企業が存在するためのカギはどこにあるのでしょうか?

【堺屋】まず起業する際には、その企業のコンセプト、概念を明確にしなければなりません。一体どんなテーマの仕事をしようとしているのか。小売店なら、安売り店なのか高級品店にするのか、百貨店か専門店か。どこかのまねをしようとしているのか、独創的なことをするのか。

そして、息子に譲るのか、自分一代で大きくしたいのか、個人でお金もうけをするのか、企業を大きくするのか・・・。そのコンセプトに向かって、技術も場所も資金も人材も全部合わせねばならない。ところが、多くの人はそもそもコンセプトというものがないんですね。

【問】皆さん自分なりに、コンセプトは描いていると言います。

【堺屋】コンセプトに矛盾が含まれているのが多いんです。仮に息子に譲るというコンセプトなら、あまり大きな規模ではない方がいい。例えば、ダイエーという会社は四兆円という膨大な規模を目指して、かつ息子に譲りたかった。これは明らかな矛盾。もし四兆円企業にするなら、既にファミリー会社ではない。

【問】特にオーナー企業は、そうした矛盾に直面しがちですね。

【堺屋】一九八〇年頃に第一次のベンチャーブームが起こつて、週刊誌にも色々な企業が載りましたが、週刊誌に出た東京本社のベンチャーで残っている企業はまずありません。有名になりたい人が多かったんですね。東京だとマスコミに出やすいから、売り上げ二〇億ぐらいあれば喜んで出てしまう。有名になる方が事業より大事だった。

【問】二○世紀の右肩上がりの時代には、そうした矛盾が通用してきたのかもしれません。

【堺屋】世の中には非常に垂丁連な人、幸運な会社というのがあるんです。風で舞い上がった紙がなかなか落ちてこないようにね。しかし、それは丁半博打で一〇〇連勝することがあるのと一緒で、本来目指すべきではない。たまたまということは必ずありますが、自分もそのたまたまになろうというのは一万人に一人の話。事業資金を得るのに競馬するようなものです。何よりコンセプトを貫くこと。これはどの時代でも変わりません。

【問】では、そのコンセプトを貫くために重要な要素とは?

【堺屋】自分が「何を好きか」を知ることです。これがなかなか難しい。人間は「有利だ」と言われたことを「好きだ」と勘違いする傾向があるんですね。

一〇年程前、医者が非常に有利だと言われたら、高校生で「私は医者が好きです」という人が増えた。ところが、いざ医学部に行って医者になったら、今度は病人ばかり相手では嫌だと言い、大量に厚生省の医務官を受けに来る。それなら、初めから法学部へ行って、国家公務員試験を通って行政官になった方がよかったはずですがね。

【問】その迷いは最近の日本人の特色と言えるかもしれません。

【堺屋】昔はひとまず有利な企業に入っていれば、そこそこ出世できた。取締役ぐらいにはなれて、宴会、ゴルフの誘いが絶えず、やがて天下りのポストがあった。そこそこの住宅に住んで、ローンを払い終わると土地が値上がりしていて小金も貯まる。そこそこの幸せ、いわゆるジャパニーズドリームですな。ところが、今やそれも夢。

【問】そうなってくると、なおさら経営者に「好き」かどうかを求めるのは困難では?

【堺屋】いや、経営者だからこそ、自分の好きなことを知り、自分の好きなことに参加してくれる同志を集めることが余計に重要になってくるんです。

ただ、形もない中でコンセプトを作っていくという空々漠々たる作業を煮詰めるには苦しさが伴う。すると必ず、「君、そんなことじやだめだよ。それなら応援しない」という輩が出てきて、ならばと、つい軌道修正してしまう。コンセプトは現実の行動に移さねばなりませんが、現実的という言葉がしばしば「着手容易性」にすりかえられてしまう。これが、事業の失敗する最大の理由です。

【問】安易な方に流れる、と。

【堺屋】現実性とは「目標実現性」なんです。ところが、世の事業者の多くは、そんなこと言っても現実に金を出してくれるのはこの人です。そんなこと言っても今あるお店はここです。うちの従業員はこれしかできません。私も年ですから・・・と、すぐに着手容易性に逃げてしまう。これが危険なんです。その内に、コンセプトがガチヤガチヤ変わってしまって、何をやっているのか見失ってしまう。

織田信長を考えてみましょうか。信長のコンセプトは天下布武。これは、武士だけが天下を支配する絶対王制を作るということで、その武士の親玉は私だから、私は絶対独裁者である。従って、朝廷も比叡山も一向宗徒も、他の大名、商人の座も権力は認めず、私だけに集中させるという考えなんです。

すると、すべてを敵に回すわけですから、そうは言っても現実的には一向宗とは手を結んだ方がいい、あるいは足利将軍とは手を結んだ方がいいですよ、という誘いが必ず出る。しかし、信長はそれを全部断ります。

そして、もし京都に城を建てて住めば、朝廷や寺に取り込まれるということで、彼は生涯、京都に屋敷も城も持たず、安土に城を造って志を貫いた。

一方、三好とか六角などが京都を占領するものの、足利将軍家に引かれて、すべて敗北。日蓮宗だキリスト教だと取り入れた者も全部だめ。皆、着手容易に惑わされた人達ですね。

【問】しかし、現在の経済環境は年々厳しくなり、目標実現性を貫くのは容易ではありません。

【堺屋】いや、条件は良くなっています。今は終戦直後に次いで起業しやすい時代ですから。存続させるのも個人の素養次第ですが、素養がいいか悪いかよりも、やはり「好き」かどう
かなんですね。例えば、アート引越センターの寺田千代乃さんやドトールコーヒーの鳥羽博道さんなどは、本当に「好き」なんですね。彼らはまさに、目標実現性だけを追求して、着手容易性には全く見向きもしない。

もう一つ重要なことが「憤り」です。今の会社にも世の中にも不満がある。その憤りが経営者の大事な要素になる。要するに「俺が、俺が」なんです。俺が変える、俺が作るんだ、とね。松下幸之助さんは九二歳で死ぬまで憤りの塊でした。

【問】特に起業には、それくらいのパワーが求められますね。

【堺屋】ところがね、今は情報が簡単に入るし発信もできる。お金も余って低金利。土地も人も余っている。それだけに目移りして、自分に対する厳しさを保ちにくい時代でしょう。

それにね、憎まれる生き方をできる人が少ない。新たに起業するというのは、既存の企業から見れば迷惑な話で、コンセプトを貫くのは我が儘です。だから、嫌われる。しかし、嫌われることを怖がらない人物でなければ、変革期の経営者は務まらない。それはやはり信念ですね。

そして最後は「運」。人生は常に運に左右されます。ただ、自分の失敗を運と思ってはいけない。常に自分は運がいいと思っていることが、経営者に求められる三番日の資質です。

【問】確かに、伸び盛りの経営者には楽観的な気質を感じます。

【堺屋】アランという哲学者が「健全な楽観論」ということを言ってます。これは小渕内閣のキャッチフレーズでもあったんですが。悲観論というのは感情なんです。もう日本はだめだ、この業界もだめだ・・・。そんなセンチメンタリズムに身を委ねていると非常に心地いい。大抵の人が持っている一種の破滅願望なんですね。ところが、楽観論というのは、感情じゃなしに、意志なんです。

今の日本の財政を考えると、「このまま行けば」破滅に向かうことは誰にも分かる。しかし、問題は日本の財政は破滅に向かつているということではなく、「このままいけば」という条件を変えねばならないということ。会社経営も同様。このまま行くと、会社は倒産します。この「このまま行くと」が問題なんです。「倒産します」が結論ではなく、「このまま行ってはいけません」が結論なんです。

もし、幕未に幕府の財政を考えたら、「このまま行けば破滅します」という答えが出たに違いない。ところが、明治維新を起こして「このまま行かなかった」から日本は再建できた。

経営者は、破滅的結論ではなく、常に建設的結論を出すための条件を探す人でなければだめなんです。「このままいっちゃいかん」と思う人でなければね。

【問】経営者に限らず、悲観論は日本人の特性かもしれません。

【堺屋】昭和一六年、国民学校制が敷かれて以降、日本は人々がいかに志を持たず、憤りを持たず、悲観的に生きるかという教育をしてきました。通学区域を作り、それぞれの学校にいろんな性格の生徒を混ぜて平均的な教育を行う。そして、指導要綱によって、得意なものを伸ばすより、欠点をなくす教育をする。

アメリカは逆に特技を伸ばす。体育が得意な子には、算数の時間も体育をさせます。先進国ではそうなんです。自由競争とはそういうもの。「個性世界」と「型の文化」の違いですね。

【問】ただ、さすがにそうした型の文化を否定しようという動きは顕在化しっつあるのでは?

【堺屋】いやいや、逆に猛烈に強化し始めたんですよ。財政も金融も諸規制も、橋本内閣から次第に績める方向に来て、予算編成もその方向にあった。ところが、小泉内閣になってから、すべてまた官僚統制に変わった。

例えば、今の教育制度は先生のためのものなんですな。先生が楽になるように、授業をどんどん減らす。だから、「北斗七星」も教えないとか、円周率は「3」とかいうことになる。

【問】今の子供達の大人になった時のことを考えたら、少々怖いですね。志と憤りを持った経営者が出てくる土壌も出来ない。

【堺屋】日本の創業率はずっと落ちていましたが、九八年から三年間、小渕・森内閣の時は上がっていたんですよ。何だかんだ言われても、規制複和、自由化をやっておった。創業者をおだてていたんですね。だから、経済戦略会議でも本来なら経団連のお歴々が並ぶところを、アサヒビールの樋口廣太郎さんが座長で、森ビルの森稔さんとか、寺田千代乃さんといった人達が入っていた。今の小泉内閣の審議会には、もうそんな人達はいませんよ。日本はもっと、創業者を尊敬しなければならん。将来を見据えるためにもね。

さかいや・たいち(本名:池口小太郎=いけぐち・こたろう)1935年7月大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業後、通商産業省(現・経済産業省)入省。70年の日本万国博覧会の企画、沖縄海洋博などの計画推進に活躍。78年、通産省を退官し、執筆・講演活動に。98年7月から2000年12月まで経済企画庁長官を務めた他、政府税制調査会委員、内閣特別顧問などを歴任。作家としては75年に「油断」でデビュー。著書は「団塊の世代」「峠の群像」「知価革命」「豊臣秀長」など多数

(NIKKEI VENTURE 2003.9)