才能とは情熱の継続 – 羽生善治

今年5月、7期ぶりに「名人」に復位して4冠となった。
日々研究を重ね、将棋の中に常に新しい発見をしようと努力を続ける。
同じ情熱を傾け続けられるのが才能と言う。
(聞き手は本誌編集長、原田亮介)

■創造的な世界に進むには1回全部、手を壊してまた作り直す感覚が必要

【問】名人位に復帰されたのは7期ぶり。やはり、ほかのタイトルとは違う重さを感じますか。
【答】もともと将棋の世界は家元制度で、家元の名前は名人でしたから、棋士も関係者もファンの中にも、名人位は特別という意識を持つ人は結構多いようです。私自身は基本的にほかのタイトルと全く同じつもりでやっていますが、周りの人たちの思いはいろいろな形で出てきますね。対局する際の雰囲気などは若干違っている感じです。

【問】6年間、名人位だけなぜ取れないのかと悩みませんでしたか。
【答】毎年、あと一歩のところで逃していたら、多分そういう思いになったでしょう。けれど名人位への挑戦者を決めるリーグ戦は6月から翌年3月まであって、6年間とも12月の年越しの時点で「今年も駄目か」という感じだったんですよ-。名人位に近づいているというよりも、だんだん遠ざかっているような(笑)。逆に今年、挑戦者になった時は少し戸惑いました。

【問】竜王、王将、王位と合わせて4冠です。1996年2月に達成された7冠をもう一度狙いますか。
【答】体力的な部分において、恐らく20代から30代前半でないと7冠は成し遂げられない。だから自分にとって7冠は、20代の時に課せられたテーマの1つという意識はありました。しかし、以前はタイトルを失うことはほとんどなかったんですが今は結構、失うこともあるし、取ることもある。いい方向に進めればいいとは思っていますが、逆の結果になっても全然おかしくない。その意味では以前ほどのこだわりはないですね。

【問】タイトルを取ること自体が最終目標でないならば、羽生さんにとって将棋を続ける動機は何なのですか。
【答】子供の頃は、それこそ将棋が好きだったからですね。プロセスが非常にエキサイティングで結果もはっきり出るし、のめり込んでやっていた。今もそういう面はかなりあるんですが、動機は何かと聞かれれば、何か発見があるということだと思います。もう公式戦で1000局を超えていますが、それでも1つの対局に、新しい発見が1つなり、2つなりある。それが自分自身にとって非常にやりがいを感じる部分ですね。

■損な戦法でも就してみる

【問】以前、谷川浩司さんと対戟された時、初手に歩ではなく、いきなり銀を動かしました。羽生さんは新しい指し手を作ってみたいという気持ちが強いようですが。
【答】あれは昔から損な手だと言われていたんですけど、どれぐらい損な手か誰も分からないんですね。やってみないと分からないじゃないですか。自分で検証してやっぱり損だと実感することと、ただ知識で損だと理解していることの間には、違いがあるんじゃないかと私は思っています。ただ、あの手は最近、全くやらないですね。明らかに損だと自覚できたので(笑)。

【問】そういう手を指すと、段位が上の方や先輩に失礼だという批判はないのですか。
【答】将棋の世界は礼節を重んじます。私はそういうことは、非常に大事だと思っています。ただ、盤上で将棋を指す時は、創造的な世界に進むと言いますか、1回全部ガシャンと壊して、また違うものを最初から作るぐらいの感覚でいた方が、内容的にも深いものができるんじゃないかと思っています。ですから、ちょっとやり方を変えることはよくあります。あと私は、同じ形を何度も繰り返していくと結局、将棋を狭い世界に押し込めていく感覚がして、息苦しさを感じてしまうんですね。新しい手を試すことで、可能性がどんどん広がる方がやっていて楽しいし、長い目で見ればいい結果が出ると思います。

【問】そうした冒険をしなかったら、勝率はどうなっていますか。
【答】毎回冒険していたら勝率は確実に下がりますね(笑)。やってうまくいくのは半分もありません。7割ぐらいは失敗している感じがします。それでも、それは理解が深まったということですから、前進できたという実感はあります。

■地位や肩書は問係ない。若手は研究熱心で、アマが伸びる環境も整った
価億ある一手は非常に少ない

【問】羽生さんが名人になられて以降、勝負の序盤の段階で非常に動きの激しい、新しい将棋のスタイルが急激に広がりました。これは羽生さんの影響ですか。
【答】というより、将棋に対する捉え方が変わってきたということなんです。将棋は非常にたくさんの可能性がある。人間の力では、全部解明することはとても不可能です。でも今は、全体は把握できないとしても一部分なら、時間をかけて綿密に調べれば解明できるというアプローチに変わってきた。実際、この局面ならばこう指せばこういう結果になると、かなり分かってきているものがあるんです。その分かってきている部分を既に知っているとか、あるいは研究していることが、今の将棋では非常に大きなアドバンテージになる。多くの棋士の人たちはそこに時間を割いています。もちろん、勝負が進めば必ずいつかは机上の研究から離れたところでの戦いになります。そうなると、昔と同じように棋士の力比べですよね。これは間違いないんですけれど、棋士の中で、研究にかける比重が昔よりも随分重くなってきたのも確かです。

【問】先日、「将棋というのは、ある局面に至るまでマイナスの手を指さないということが極めて重要なゲームである」と言われていました。これが今の将棋の本質なんですか。
【答】将棋の場合、ある局面で平均80通りぐらい指し手の可能性があるけれど、恐らく半分以上はやらない方が良い手なんです。ルール上の可能性はたくさんあるんですが、実際に価値のある一手というのは非常に少ない。迷う時は、手の候補がたくさんあるからというより、有効な手が見つからないという理由の方が多いんです。ですから、できるだけ可能性を広げて、しかも自分にとってマイナスにならないように、うまく相手に手を渡す。ここが一番苦心をしているところです。将棋には、ある場面でAという手を指すと相手にA′で返される、Bという手をやるとB′で返ってくるという場合が結構あります。一番最初にAもBも使ってしまうと、返されてしまうんですね。だから、第3のCという手をやっておいて、相手に先に選択させる。自分がこういう構想で臨むと考えるのではなく、相手がやってくることに対してどのようにでも対応できるように準備しておくことが、大切になってきています。

【問】序盤は研究の対象になって、いろいろな手が出てきている。では、中盤や詰めに行く終盤は、研究のしようはないんですか。
【答】序盤の研究といっても、最後の詰みの形まで研究して、それで結論が出ているものもあるんです。この形はこの手順で詰むから、こっちが勝ちだと。逆に言うと最先端の流行の形は、一瞬でバッと切り合って、それでもう終わっちゃうことが多いんですよ。駒がぶつかってチャリンとなった瞬間に、もうどっちかが切られている。

【問】居合みたいなものですね。
【答】そうなんです。もちろん、そういう形ばかりではないのですけれど、形によっては最後まで分かっているというのは、やる方からすればかなり緊張感が必要です。もしかしたら相手はこの形の詰み方を最後まで知っているかもしれないという、そういう怖さをお互いが持ってやっているんですね。

【問】ところで、プロとアマの実力差は縮まっているのですか。
【答】縮まっていますね。将棋の世界では肩書はあまり役に立ちません。地位や権威は、非常に通用しにくくなっています。それは今の時代と関係していると思います。今はプロもアマもネットで将棋をやっているんですね。するとある程度高いレベルのアマの人は、プロの技術を学ぶことができるんです。以前はそういう環境がなかったので、アマで強くなった時、もう相手がいなくなってしまってそこから伸びなかった。今はネットのおかげでそこから伸びる環境ができたんですね。

■将棋界にも国際化の波が来る

【問】子供たちの間では囲碁が流行っています。一方、子供が将棋を指す機会はそれほどありません。将棋は今後、どのように普及していきますか。
【答】人気の囲碁漫画を読んで、間違えて将棋教室に来たという人もいるんですよ(笑)。囲碁が流行っているからどうだというわけでなく、私たちは私たちなりに将棋を広めていくことを考えればいいのではないでしょうか。昔は縁台将棋があって、日常生活の中に将棋が定着していました。今は、将棋盤のある家の方が少ない。明らかに昔とは環境が違う。将棋教室に来ている子供たちでも、強くなるために来ている子もいますが、大多数は礼儀作法を教えたいとか、落ち着きを持たせたいとか、少し考える力をつけさせたいとか、お稽古事のような感じでいますよね。ですから将棋を普及させていく側、例えば日本将棋連盟や私などは、将棋を覚えて強くなってくださいというより、ルールを知っているだけでも長い人生の中で損はしませんよ、という感じで子供たちに普及を進めた方がいいのかなと思っています。実際、将棋連盟とは関係ないNPO(非営利組織)で、将棋を海外に広めようという団体もあるんです。こういう団体が活躍することなど、一昔前は考えられませんでした。将棋は世代を超えられますから、棋士だけではなく、将棋の好きな人たちがやりがいを感じながら教えていく方が、お互いにプラスでしょう。

【問】海外の人にもっと将棋を理解してもらいたいと考えますか。
【答】例えば海外の人が日本を知りたいと思った時、将棋のルールを知っていて、しかもやったことがあるとなると、それは日本を理解しやすくなるのではないでしょうか。将棋は、日本の伝統とか文化が色濃く反映されているものなので、そういう形で海外に広まっていけばいいなとは思っています。 【問】中国をどう見ますか。将棋の競技人口が増えつつあると聞きますが。
【答】指しているのは子供ばっかりなんです。現地の中国人が教えて精力的に広めていますね。上海では競技人口2万人と言われています。まあ、1万人、2万人なら大した数ではないですよね、向こうでは。でもこれから先、国が奨励してやるようになったらすごい脅威ですね。囲碁の世界みたいな感じになっても、全然不思議ではない。

【問】大相撲の世界では外国人力士が非常に強くなり、日本人の横綱がいないということが起きている。将棋の世界でも将来、日本人以外のプロ棋士やタイトル保持者が出てきてもおかしくないとお考えですか。
【答】私はあってもおかしくないと思っています。遅いか早いかという問題だけですね。仮にせき止めても、10年や20年は遅くなるかもしれないけれど、最後はそういう方向に進んでしまうでしょう。だったらどんどんやってもらった方がいい。ただ、そうなってしまったら、感覚としてですけれど、日本人がずっとタイトルを守ることは、恐らくできないでしょうね。

【問】若いとはいえ、羽生さんも32歳。若手が台頭してくる中、この勝負の世界で今後は何を目指しますか。
【答】若手で優秀な人はたくさんいます。ただ、誰かが1人飛び抜けているという感じはないですね。私自身はこれから鋭さを増すことは多分できないので、深さを増すことができたらいいなと思っています。もう1つ、戦う姿勢や積極性というんですか、自分から打って出るんだという姿勢は、いくつになってもずっと持ち続けていられたらいいと思っています。

【問】今の若手と羽生さん世代の違いは何なのですか。
【答】私なんかは、将棋の中で知識や情報が重きをなしていくのは、あるプロセスを経てからという感覚ですが、今の若い人たちは最初からそういう(知識)指向なんです。そこが違います。若い人は突き詰めて考えていくのが当たり前ですから。研究もどんどん進んでいますしね。ウソみたいな本当の話なんですが、将棋会館の4階でよく公式戦をやります。そこで記録を取っている奨励会の子がいるんですけれど、プロの棋士が対局を終えてその子に意見を聞くことがあるんです。

【問】羽生さんもですか?
【答】私はあまり聞きませんが、ほかの人が「この形どう?」って。つまりその奨励会の子の方がプロより深い研究をしていることがあるんですね。実際、ある特定の形では、奨励会の子の方がプロよりエキスパートだということもあり得る。そういうことは別に不思議ではなくなっているんです。

■考える幅は7冠時代より広い

【問】仮に7冠当時の羽生さんと今の名人の羽生さんが対戦したら、どちらが勝ちますか。
【答】とても難しい質問ですね。多分、今の自分が勝つとは思いますが、勢いとかもあるので(笑)。考える幅とか選択の範囲とかは今の方が明らかに広いと思いますね。だからといって7冠当時の自分に絶対勝てる自信があるかと言われたら、そうとは言えない。

【問】では、棋士にとって努力はどれほどの重みを持つものでしょうか。
【答】うーん、これも難しい質問ですね。ちょっと違う答え方をしていいですか。努力の逆は才能ですよね。私は以前、才能は一瞬のきらめきだと思っていました。けれど今は、10年とか20年とか30年とか、同じ姿勢で同じ情熱を傾け続けられることが才能なんだと思っています。確かに、直感でどういう手が浮かぶとか、ある手をばっと切り捨てることができるとか、個人の能力差はあります。でも、そういうことよりも、継続できる情熱を持てる人の方が、長い目で見ると伸びるんじやないでしょうか。だから、答えとしては努力の重みは50%以上ということになりますね。ただ、突き詰めて考えていったらどうなるかというのは、ちょっと私にも分からないです。

【問】今まで最も悔しい局面はどんなものでしたか。
【答】1手詰めをうっかり見落としていた時です。2年前の9月です。普段なら1手詰めを読むのに1秒かからないのに、その時はずっと分からなかった。相当慌てたというか、相手も慌てていましたけれど。まさかこんな手を指してくるとは思っていないから。そういう時は、よく手が見えているんです。1分間で60手、70手と読んでいる。ただ、その手だけ見えなかったんですね。

【問】今までの経験の中で、そういうことは初めてですか。
【答】いや、2回目です。前は3手詰めをうっかりしていた。まあ、これ以上はないでしょう(笑)。

傍白
ひょうひょうとした話しふりには科学者を思わせるものがあります。一局の将棋には、10の220乗の持し手の選択があると言われています。その中から必勝の手順を選んでいくのは本来人智の及ばない作業ですが、羽生名人は少しずつ「発見」を積み重ねて、人智の限界を広げることに情熱を傾けています。プロ棋士であってもほんの一握りしか手にできないタイトルすら、その結果と割り切っている風です。
敗れるリスクを冒しながら常に新しい手がないかと探求するには、自らにたゆまぬ変化を課す厳しさが欠かせません。成功に安住すると足をすくわれる、という企業軽営の誓諦に通じるものを感じました。

羽生善治(はぶ・よしはる)氏
1970年9月、埼玉県生まれ、32歳。82年に二上達也九段の門下に入り、85年、15歳で四段に昇級しプロ棋士となる。89年、竜王戦で初タイトルを獲得。94年史上初のタイトル6冠、96年には7冠王(竜王、名人、棋聖、王位、王座、棋王、王将)を達成する。7冠王を達成したのは、これまで羽生氏ただ1人で、通算勝率7割4分台を誇る。今年5月、森内俊之名人(当時)を破り、7期ぶりに名人に復位し4冠に。元女優の妻・理恵さんとの問に2女。

NikkeiBusiness 2003年7月7日号
編集長インタビュー 羽生善治氏[棋士]