追想(小林秀雄追悼) 宮沢喜一

(新潮・小林秀雄追悼記念号・昭和57年4月)

拙い一文を捧げて永い間の御厚誼に対するお礼に代えます。

学生時代からの憧れであった小林さんにお目にかかれるようになったのは昭和三十年代のはじめで、水野成夫さんのお蔭でした。フランス文学の方々のお集りの末席に私も加えて頂いたのですが、辰野、鈴木、今、大岡、それに小林さん、水野さん、皆様お若かった頃ですから、昼のゴルフも夜のお座敷も大変賑やかで、夜などはもう少しで喧嘩になるのかと思ったことが何度もありました。

伊豆にゴルフに行った時、急に雨になり宿の風呂へかけ込んだことがあります。風呂の中で小林さんに、「ゴルフをやっていると昨日と今日とこれが同じ人かと思うほど出来不出来があって、人間というものがいかに頼りないかよく分ります。そんな当てにならぬ人間達が、集ると一つの歴史の流れを作ると考えられているのは何故でしょうか」とおたずねしたことがあります。

今から思うと冷汗三斗ですが、小林さんはたいへん丁寧に答えて下さいました。方丈記を引用して、一人一人の立場からすれば自分自身はウタカタのようであっても、それが集るとその時その時で一つの流れを形成していることが後からみるとわかる、それを歴史と呼ぶのだ、という意味のことを言われたのですが、生意気な若僧に正面から親切に話をして下さって感激しました。

その頃短い期間私は文部省の政務次官をしたことがあり、ある作家を文化勲章の受章者候補に推しましたが、審査会ではこの作家は戦前から時流に阿ねた通俗文士であるという理由で却下されました。

しばらくして、酒の席でこのことを小林さんにお話したところ、小林さんは即座に、「あの人の書くものは平易で面白いから、物を作る職人などにも愛読者が多い。文化を作る人の為に明日の糧を与えているという意味で、この作家は文化に貢献していると言える」と答えられました。

もうその時私は次官をやめておりましたし、この話は誰にも口外したことはありませんが、この作家はやがて文化勲章を受けました。

雑誌などに頼まれて私が書くものを時々見ていて下さったようで、「君の文章は、考えがあっちへ行ったりこっちへ行ったりしていて、結局何を言いたいのか、読んでもよくわからない。それは君自身が考えつめていないからだ。頭の中でボンヤリ考えるのではなくて、紙に字を書いてそれを削って行くとはじめて自分の考えが整理される」ということを何度も言われました。

小林さんのお書きになったものは、いわば出来上った仏像をみるようなもので、大きな木材から余分なものが全部削り落された後の残りだけを読者は読むわけですから、そこへ来るまでに何があったのか、なぜそこへ到着したのか、なかなかわかりません。小林さんも別段意地悪でわかりにくくしておられるわけではなく、出来上りの姿としてはこれしかない、そこへ来るまでの道筋は自分と同じ苦労をした人にはわかるはずだ、ということなのだろうと思います。

ですから私は以前には小林さんの講演や座談会のナマの速記をこっそり見せてもらいました。流石の巨匠もこれだと世間並みのムダが残っていて、考えておられることの大凡の見当がつくのです。

本居宣長とその補記を書店から頂戴しましたが、わざわざ私の名前をお書き下さったカードが挿まれていまして、光栄なことだと思いました。

最近はお目にかかる機会もありませんでしたが、ご動静は白洲さんや吉井さんからよく承っておりました。ご容態がお悪いと聞いた最後の数日は落ち着かない気持でおりました。

一期一会と申しますが、謦咳に接することができたことを仕合わせだったと思っております。