素晴らしいアドバイス

メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。

それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」と尋ねた。

すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。

旅行者は、
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、

漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、

漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって… ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者は、まじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。
いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう。」

1万人の脳画像でわかった40歳からの脳の鍛え方

マンネリ脳、省エネ脳にならないためにはどうすればいいのか。

私はMRI(磁気共鳴画像法)を通じて、胎児から100歳を超えるお年寄りまで、1万人以上の脳を診てきました。

その経験から見えてきたのは、「脳の使い方を脳画像から読み取れば、その人の生き方がわかる」ということです。

たとえば、意思決定を常に行わなければならない経営者の脳を見ると、意思決定をする脳の部位が発達していることがわかります。

(写真1 MRIによる脳の断面図)

写真1のMRI画像を見てください。これは脳の断面図で、黒く太い木の枝のように見えるのが、発達した神経細胞から伸びる神経線維の集まりで「白質」と呼ばれます。この神経細胞同士を結び付ける「枝ぶり」こそ脳の個性です。

脳は死ぬまで成長する

もう一つわかったことは、「脳は死ぬまで成長する」ということです。かつて脳科学は「脳は3歳で決まる」といっていました。しかし、それは間違いでした。確かに1歳頃から脳の神経細胞は減っていきますが、いくつになっても脳には使われていない未発達な神経細胞が山ほど眠っています。使い方次第で、脳は一生、変化し、成長します。

たとえば、80歳でドラムを始めた男性の社長さんがいらっしゃいます。写真2の右の枝ぶり画像は、80歳のときの脳ですが、ドラムを始めて1年後の左の脳画像と比べてみてください。薄く表出されていた手足の動きを担う部位が、黒くなり生き生きと成長しています。これは小学生の脳の一年の成長に匹敵します。

(写真2 80歳男性の脳(右)とドラムを始めて1年後の脳(左))

でも、使わないと脳は衰えます。特に50代からは脳の老化力がアップするので、何もしないと急速に老化していきます。ですから、40代になったら、現在の脳の状態を知り、自覚的に脳を鍛えてほしいのです。それが50代以降の脳の老化を防ぎ、脳の持続的成長を促します。40代が運命の分かれ道なのです。

では、どのように脳を鍛えればいいのか。最も重要なことは、使っていない脳の部位を使うことです。

(図1 8つの脳番地の位置)

私は機能別に脳を「思考系」「運動系」「視覚系」「感情系」「理解系」「聴覚系」「伝達系」「記憶系」の8つに分け、それぞれを「○○系脳番地」と呼んでいます(それぞれが脳のどの部分にあたるのかは、図1を見てください)。

あなたがいつも使っている脳番地は、これからも使われる可能性が高い。しかし、脳は同じ使い方を続けると、楽をしようとして、省エネを覚えます。1時間かかったことが、30分でできるようになります。若いころは、これは「進歩」でしたが、50代に入ると、この脳の省エネ化は「退化」を招きます。

一方、使っていない脳番地は、あなたがこれまでの人生で、あまり使ってこなかった脳番地ですから、50代からは急速に老化していくでしょう。だからこそ、先ほども述べたように40代のうちから、自分が使っていない脳番地を鍛える習慣を身につけることが大切なのです。

しかし、40代の特に男性は、脳を鍛えるどころか、脳の使い方がマンネリ化し、著しい省エネ脳になりがちです。

40代の女性は、仕事をしながら、家事や育児をし、地域社会でも様々な関係を築いていきます。だから、様々な脳番地が開発されて、マンネリ脳になりにくい。

その間、男性は何をしているかといえば、机に座って、パソコンに向かっているだけ。給料が上がり、地位が上がると、現場を離れて、現状に満足してしまい、脳が衰える。この悪循環にはまってはいけません。

さて、40代で使っていない脳番地を使いはじめるとどうなるか。その脳番地は急速に成長します。つまり、これまで使っていない脳番地は、あなたの脳の「伸び代」なのです。

では、使っていない脳番地を使うにはどうすればいいのか。その答えはあなたにとって、できるだけ「新しい」ことをすることです。それは、これまで使っていた脳番地の省エネ化を防止するのにも役立ちます。

使っていない脳番地に「新しい」刺激を与える。それが脳を鍛える最良の方法です。

それでは、脳番地ごとに、どんな人がその番地を使っていないのか、使っていないとどんな症状が出るのか、そして、その番地に「新しい」刺激を与えるにはどうすればいいのか、を順番に説明していきましょう。

 

理解系は右脳を使おう

まず、最初は「理解系脳番地」です。この脳番地は私たちが目で見たり、耳で聴いたりした情報を統合し、理解する役割を果たしています。

(写真3 現代人の典型的な脳)

「理解系脳番地」は脳の後ろの方に位置しているのですが、写真3を見てください。右の後ろ部分の枝ぶりがほとんどありません。これは現代人によく見られる脳です。「理解系脳番地」は右脳、左脳両方にまたがっているのですが、右脳で「非言語情報」、左脳で「言語情報」を扱っています。ですから、写真3が物語るのは、現代人は「言語情報」ばかり処理していて、「非言語情報」をほとんど扱っていない、ということです。

具体的にいえば、新聞、雑誌、スマホなどで大量の文字情報に触れているけれども、生の現実を見ていない。かつては風が吹いてきて、暗くなってきたら、右脳の「理解系脳番地」が「非言語情報」を統合して、「雨が近いぞ」と気づけましたが、現代人は天気予報を見ていなかったら、雨が降ることに気づけない。

このような脳の使い方をしていると現実感が希薄になります。また、人の表情を読んだり、場の空気を感じるのが、下手になります。どれも言葉では表されないからです。空間認識能力も下がるので、街で人とぶつかったり、つまずいたりすることが多くなります。整理整頓ができなくなるのも、典型的な症状です。

ですから、ここでは特に右脳の「理解系脳番地」を鍛える方法を紹介しておきましょう。

まず、部屋の整理整頓と模様替えです。空間に対する理解力を高めるためです。電車内の見知らぬ人の表情から、その人の気持ちや背景を想像するのもいいでしょう。とにかく文字情報から離れる時間を作って、自然を眺めることです。

 

料理、楽器でも運動系は伸びる

次は「運動系脳番地」です。文字通り、体を動かすときに使う脳番地です。ほとんどの現代人はデスクワークが多く、運動不足ですから、この脳番地もあまり使われていません。

食事中に食べ物をこぼす、外出先ですぐに腰を下ろしたくなる、服を脱いだら脱ぎっぱなし、といった症状が出たら、要注意です。

「運動系脳番地」を鍛えるには、スポーツももちろんいいのですが、手軽なのは、歩くことです。40代なら、1日1万歩は歩きましょう。

料理やカラオケ、楽器演奏、日記や絵をかくこともいい方法です。手や口を使うと、この脳番地がよくはたらくからです。歌いながら料理をする、など2つのことを組み合せて、同時にするとより効果的です。

楽器演奏は「運動系」「視覚系」「聴覚系」と複数の脳番地を同時に使い、脳番地同士の連携が深まるので、特におすすめです。

このように「運動系脳番地」は、他の脳番地と連携して使われることが多いので、あらゆる脳番地を統合的に成長させたいときには、まず「運動系脳番地」を鍛えてください。

 

視覚系には自然からの刺激を

3番目は「視覚系脳番地」です。目から入った視覚情報を処理する脳番地です。ほとんどが後頭部にあり、右脳部分が「非言語情報」を、左脳部分が「言語情報」を処理しています。「理解系脳番地」と同様、現代人の「視覚系脳番地」は左脳部分ばかりが使われる傾向があります。

この脳番地が衰えると、本を読むのが億劫になった、車窓から風景を見ていると疲れる、雑踏で人とよくぶつかる、といった症状が出てきます。また、「視覚系脳番地」で「非言語情報」を処理する右脳部分が衰えることは、周囲の状況の変化が察知できない、ということですから、感情の起伏が乏しくなり、生活が無味乾燥になったり、危機的状況を感じられなくなります。

ですから、「視覚系脳番地」を鍛えるために、都市で生活していても、ぜひ朝日や夕日、月の満ち欠け、星の位置、天候、風景など、自然の変化を意識的に見てください。

旅行に出て、新しい風景に出合うのも効果的です。特定の文字や数字など、何かテーマを決めて、車窓からの風景を見るのもいいでしょう。

また、美術館で芸術作品を見ることも、「非言語情報」を扱う視覚系の右脳部分を刺激します。

 

聴覚系はラジオを聴こう

4番目は「聴覚系脳番地」です。耳から入った聴覚情報を処理する脳番地です。

技術者や職人など、人と会話しなくとも一人で仕事が進められる人は、この脳番地が弱くなりがちです。

聞き間違いが増えた、話をよく訊き返す、気がつくと一方的に話をしている、人が話しているときに自分の話をかぶせる、といった症状が出てきたら、この脳番地が衰えている可能性があります。

「聴覚系脳番地」を鍛えるには、とにかく意識的に注意深く耳を使うことです。ラジオを聴きながら寝る。会議の速記録を作成する。自然の音に耳を澄ませる。といった方法が有効です。ラジオを聴きながら、書き取る。本を音読しながら、手書きで写す。いずれも「運動系脳番地」や「視覚系脳番地」との連携が強化されるので、おすすめです。

 

新しい回路が思考系を変える

5番目は「思考系脳番地」です。この脳番地は前頭葉にあり、思考、意欲、創造、計画といった高度な機能を担っています。また、五感を司る脳番地とも密接な関係を持ち、感情や欲望のコントロールもここで行っています。まさに「脳の司令塔」といえます。

自発的に何かを計画し、実行に移し、様々な判断や決断を下しながら、新たな何かを創造していく。そのような機会が少ない人は、この脳番地をあまり使っていない可能性があります。決められたルーチンワークを黙々とこなしている人や指示待ち族で仕事の計画を自分で立て、自分の判断で進めることが少ない人は、要注意です。

この脳番地が衰えると、判断力が低下します。買い物に行くと優柔不断で決めるのに時間がかかったり、2つのことが同時にこなせなかったりします。

また、集中力が衰えるので、計画を立てたり、新しいことに挑戦する意欲が減退します。何をするにも「面倒くさい」と思いはじめたら、危険信号です。

「思考系脳番地」を鍛えるには、脳に負荷をかける方法が有効です。たとえば、じゃんけんなどのゲームにわざと負けるようにする。「絶対ノー残業デー」を作る。休日の行動計画を他人に決めてもらう。自分の好きな定番メニューを10日間やめてみる、などです。

これらの方法の共通点は、自分の従来の思考や行動に何らかの「拘束」や「枠組」を課すことで、新しい思考や行動を促すことです。

わざとゲームに負けるという「枠組」を与えるだけで、新しい思考回路を使わなければならなくなります。「絶対ノー残業デー」も仕事の効率を上げるためにいつもと異なる工夫を要求します。他人が決めた「休日の行動計画」は、予想外の場所や行動へとあなたを誘ってくれるでしょう。定番メニューを断てば、今まで頼まなかったメニューとの出合いが待っています。

とにかく「新しい」ことに挑戦することが、「思考系脳番地」を目覚めさせます。だから、40代の特に男性には、料理や新しい趣味にチャレンジしてほしい。それが新しい思考回路を生み出し、「思考系脳番地」をその最も重要な仕事である、新しい意欲と創造へと向かわせます。

 

感情系を満たす「ご褒美デー」

6番目は「感情系脳番地」です。喜怒哀楽を担い、「思考系脳番地」と密接に関係しています。

「感情系脳番地」は歳を重ねても衰えにくいのが特徴なのですが、人と会わないでいい仕事、IT系エンジニアなど、パソコンと一日中向き合っているような仕事の人は、この脳番地が衰えている可能性が高い。

最近、ドキドキ、ワクワクすることがないな、人が話すことに共感しないな、と思ったら、要注意です。

「感情系脳番地」を鍛えたかったら、とにかく人に会うことです。人と会って、コミュニケーションを取り、感情を共有する機会を増やしましょう。平坦になってしまった感情に起伏を与えるのです。

しかし、逆に感情に起伏がありすぎて、感情を暴走させてしまうのも、「感情系脳番地」が衰えている証拠です。そこで40代男性には、何か目標を設定し、それを達成できたら、自分にプレゼントをする「ご褒美(ほうび)デー」を提案します。自分の欲求を明確にして、満たしてあげることは、感情を豊かに経験することにつながり、感情が暴走するのを防ぎます。

 

伝達系は日記を書こう

7番目は「伝達系脳番地」です。誰かに何かを伝えるときにはたらく脳番地です。

当然ですが、人と喋らない人は、この脳番地を使っていません。ですから、農業や漁業に従事していて、朝から晩まで一人で黙々と作業をやっているような人は、この脳番地が弱りやすい。

人と会話するのが面倒になり、手紙やメールを書くのが億劫になったら、危ない。自分の気持ちをうまく表現できない、怒っていないのに、「なぜ怒ってるの?」と訊かれる人も、この脳番地が劣化している可能性があります。

「伝達系脳番地」を鍛えるいい方法は、日記を書くことです。その際には、ちゃんとした日記を書こうと気負わないでください。何でもいいから、その日あったことを記録するだけで十分です。

 

記憶系にいいのは思い出すこと

最後は「記憶系脳番地」です。文字通り、記憶する脳番地です。

この脳番地が衰える人は、せきたてられるように仕事をして、過去を振り返って、思い出すことをしない人です。最も典型的な職業は、週刊誌記者です。先週何を取材して、何を書いたか思い返さないし、憶えていない。

この脳番地が衰えたときの症状は、ずばり記憶力の低下です。

では、「記憶系脳番地」を鍛えるにはどうすればいいのか。それは日記や手帳を一週間に一度ぐらいは見直して、自分が何をやったのか思い出すことです。要らないものを捨てる「断捨離」も有効です。ものを見ながら、過去を思い出し、それが必要か不要か判断しなければならないからです。

 

自分の時間を作ろう

最後に40代男性向けにとっておきのアドバイスを送りましょう。

それは1日10分でも1人になる時間を持つこと。会社に着く前でも、家に帰る前でもかまいません。

40代にもなると、家に帰れば、妻と子供がいて、家事や育児をしなければならず、会社では責任ある仕事が待っています。自分の意思とは別に環境が脳の使い方を常に決めてしまいます。その要求に24時間応えていると、マンネリ脳、省エネ脳になっていくのは目に見えています。

まず、自由な時間を10分でもいいから作ってください。そして、その時間を使って、自分の脳の状態をチェックし、マンネリ脳にならないためにはどうすればいいのかを考えてください。そして、新しい脳の使い方を発見してください。その時間を新しい脳の使い方に充てるのもいいでしょう。健闘を祈っています。

 

加藤俊徳

https://www.nonogakko.com/company/kato.html

今も心にある、実業家だった祖父の教え

私が今も心に留めている祖父の言葉があります。

派遣事業をしていたときのことです。スタッフが派遣先で悪さをして、会社の信用を落としてしまった出来事がありました。祖父に言えばなぐさめてくれるかなと思ったのですが、反対に「お前に徳が足りないから、そういうことになるのだ」と怒られました。

「臭いものには蝿がたかる。いいものには蝶が来る。お前がいいものにならないと、結局、事業はうまくいかない」と言われまして。徳を積み、人間としての器を広げていかないといい会社運営はできないのだな、と痛感しました。

 

小間裕康
1977年兵庫県生まれ。甲南大学法学部在学中の1999年コマエンタープライズを起業、家電メーカー向けビジネス・プロセス・アウトソーシングなどを展開、年商20億円まで成長させる。2009年京都大学大学院経営管理教育部に入学。10年GLM設立、14年日本初の量産EVスポーツカーの国内認証を取得、15年「トミーカイラZZ」量産開始。

 

 

たったの1分で寝落ち?

1【4秒間】かけて鼻から息を吸う。
2【7秒間】呼吸を止める。
3【8秒間】かけて口から息を吐く。

加賀見俊夫(21)両輪動き出す

世界観の変更 首振らず
TDS施策次々 5年で開花

2001年、東京ディズニーシー(TDS)は無事、開園にこぎ着けた。アトラクション23、物販ショップ32、レストランなど飲食施設33。海をテーマに冒険とイマジネーションで彩った。時間と手間をかけて造りあげた。

「大人も楽しめるテーマパーク」を標榜し、東京ディズニーランド(TDL)と違って一部のレストランではアルコールも飲める。アトラクションやショーの質の高さはTDLと同様だが、パークの異国情緒溢れる雰囲気など、また違った魅力を打ち出した。建築物やアトラクションに最新のハイテクを駆使しているけれど、ゲストをロマンと郷愁の世界に誘うため、わざわざローテクに見せている。

ディズニー社との長きにわたるコンセプトワーク、それを実現させるための創意と工夫。プレオープンを終えた後も、グランドオープンまで細かな改善と微調整を施した。

パークを歩く時は、入り口で入場を待つゲストのみなさんの様子、出口から出るときの表情をさりげなく観察する。長年の習慣だが、ドキドキする半面、楽しくもある。ゲストの笑顔を見ると心が弾む。パークの空気を肌で感じることができるのは、この仕事の醍醐味だ。

私には施設の一つ一つに愛着がある。ヴェネツィアの運河をゴンドラに乗って周遊する「ヴェネツィアン・ゴンドラ」。ゴンドリエと呼ぶ漕ぎ手が朗々と歌を歌う。「センター・オブ・ジ・アース」はフランスのSF作家、ジュール・ヴェルヌの作品の世界が広がるアトラクションだ。TDSの中央にそびえ立つプロメテウス火山の中を地底走行車に乗って探検する。

もう少し紹介したい。「ブロードウェイ・ミュージックシアター」では、格調高い劇場体験ができる。ここでしか見られない本格的な歌と踊りのライブショーを毎日公演中だ。

開園当初、テーマパーク=TDLという確固たるイメージが定着していたことから、TDSの持つ独自の世界観がなかなか浸透しなかった。入場者数は順調だったが、思っていた以上の伸びをみせない。TDLの延長ととらえられることも多かった。世界で唯一の海をテーマにしたディズニーパークとして、時間をかけて受け入れていただく必要があった。

経営会議などの席で「TDSのコンセプトを変えたらどうか」との意見も出た。だが私は頑として首を縦に振らなかった。コンセプトの変更は逆効果だと確信していた。苦労を重ねて創ったから変えないというのではない。トップの経営判断だ。長年パークを見続けてきた私の感性が、そう訴えていた。

「大丈夫。TDLとTDSの両輪は必ず確実に回り始める」と主張した。思った結果が出せなければ会社を辞めるとまで宣言した。本気でそう考えていた。

もちろん手は打った。04年に夜のエンターテインメントを入れ替え、05年7月にはTDS開園後、初めての大型投資となる「レイジングスピリッツ」を導入した。360度ループするローラーコースターだ。そして06年、開園5周年の年に入場者数は2パークで過去最高の2581万人にのぼった。両輪が確かに回り始めた。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(20)TDS開園

天も祝福、空晴れ渡る
長く苦しい交渉、感慨無量

2001年9月4日、東京ディズニーシー(TDS)は開園の日を迎えた。「長くて曲がりくねった道だった」とつくづく思った。さまざまな感慨が浮かんでは消えた。テーマパークのコンセプトが海に決まってから開園までほぼ10年。振り返ってみると、私には10年間、公私の「私」がなかった。どうすればTDSを最高のものにできるのか。そのことがずっと頭から離れなかった。

オリエンタルランドもディズニー社も自社の利害だけを考えていたわけではない。ゲストのみなさんに喜んでいただくことを最優先に考えて果てのない、苦しい交渉を続けてきたのだ。苦労した甲斐があった。

さあ、グランドオープンだ。気持ちが高ぶる。「平常心で臨もう」と自分に言い聞かせた。いつものように朝は和食を食べて出かけた。あいにくの雨模様だった。

大きなイベントのときはいつもそうだが、パークは慌ただしかった。今日は別格のビッグイベントである。キャストたちは落ち着いて最終的な準備を進めていた。TDSは見事に仕上がっていて、美しく清潔だった。

南欧の古くて風格のある港町をイメージしたメディテレーニアンハーバー、20世紀初頭のアメリカの港町を再現したアメリカンウォーターフロントなど7つの個性豊かな港を再現したテーマポートにさまざまなアトラクションを配置してある。メーンコンセプトには「冒険とイマジネーション」を掲げた。

「東京ディズニーシーの開園を宣言いたします」。私の言葉を合図にプロメテウス火山が噴火し、花火が盛大に打ち上がった。同時にS.S.コロンビア号が汽笛を鳴らし、チャペルの鐘が一斉に鳴り響いて祝福した。

セレモニーが始まると、上空の雲が切れて、間からさあっと太陽の光が差し込んできた。雲がだんだん消えていく。まるでファンタジー映画の演出のように、陽が輝き、パークがパッと明るくなった。魔法がかかったんだと思った。

マイケル・アイズナー会長、ロイ・E・ディズニー副会長をはじめ米国ディズニー社の幹部たちも駆けつけた。第2パーク構想を巡る日米交渉が難航を重ねた際、米国側の交渉責任者で、大変なご苦労をされたフランク・ウェルズさんの姿がないのが悲しかった。彼は1994年4月、米国でヘリコプターの事故で亡くなられていた。

奇跡のような天気の回復に、アイズナー会長たちは「ウォルトが来た!」と心の中で叫んだそうだ。新しいパークの門出を祝ってディズニー社の創業者、ウォルト・ディズニーが天から祝福に降りて来たと感じたのだろう。

私には別の人が天から見守ってくれていると思えた。セレモニーの後の記者会見を終えると、ひとりで車に乗り込んだ私は高橋政知さんが眠る東京・府中市の多磨霊園に向かい、墓前にしっかりと手を合わせた。

9月4日は高橋さんの誕生日だった。偶然の導きによってこの日になったのだが、最終的には社長の私が決めた。テーマパークの仕事は感性とハートが何よりも大事なのだ。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(19)恩人逝く

「後は100%君に任せる」
夢の場所育てることで報恩

第2パークの名称は後に東京ディズニーシー(TDS)に決まった。力強くその建設をけん引してきた高橋政知相談役は、80代半ばにさしかかり、さすがに体力の衰えが目立ち始めた。持病の心臓病も悪くなっていた。だが、都内の病院に入院しても、TDSのことが頭から離れないようだった。

見舞いに行くと、必ず「どうだい、シーは?」と尋ねる。進み具合を説明して「大丈夫ですよ」と答えると安心したようにうなずいた。

ある晩訪ねた帰り際、高橋さんは「後は100%君に任せる。思う存分やってくれ」と笑顔で手を振った。2000年1月31日とうとう逝ってしまった。86歳だった。

通夜・葬儀は密葬だった。生前、告別式など盛大にやるな、と言っていたが、後日お別れの会を開くことを決めた。私は「高橋さん、骨身を削って造ったパークに行きましょう」と亡骸に語りかけて車を先導し舞浜に向かった。

到着したのは閉園後の東京ディズニーランド(TDL)。正面から車が入りワールドバザールを抜ける。高橋さんがよく座ってパレードを見ていたベンチ。シンデレラ城の上にあがる花火を見ている嬉しそうな笑顔。パークの中には思い出が詰まりすぎている。色々な姿を思い出して泣けてきた。

車は建設中のTDS外周を回った。海のテーマパークに夢を賭けていた高橋さんは、まだ夢の途中にあるこの場所を見ずに逝った。夜空は満天の星だった。与え続けてくれた人だった。こういう人にはもう二度と出会えない。思い出が次々に浮かんできた。

1983年9月4日、高橋さんの古希の誕生祝いを閉園後のTDLで開いた。奥様の弘子さんもお招きした。舞台は「蒸気船マークトウェイン号」。お2人はマーチングバンドの先導で船着き場に到着。特別な料理にショーでもてなした後、ご夫婦だけでアメリカ河を1周した。こういう派手な特別扱いを嫌う高橋さんだったが、はにかんだような笑顔を浮かべていた。

にこにこして楽しんでおられた弘子さんがおっしゃった。「高橋は家庭を顧みずに仕事ひと筋でした。こんなに素晴らしいものを命懸けで造ったのですね」。それを聞いて私は胸が熱くなった。

高橋さんは婿養子で弘子さんは資産家のお嬢さん。高橋さんはTDLのために、その資産を使って漁民との交渉をはじめ、さまざまな出費をまかなった。絵画や骨董品を売り、ついに渋谷の神山町の屋敷も手放した。現在のニュージーランド大使館だ。弘子さんはひと言も文句を言わなかったそうだ。高橋さんは弘子さんが入院されたとき、病室にベッドを運びこみ、泊まりこんで看病した。

私は理論武装をして、しばしば高橋さんに具申した。論争もしたが、後々考えると、たいがい高橋さんの方が正しかった。発想のスケールが大きかった。TDLの交渉がのるかそるかの正念場のとき「加賀見、仕事がなくなったら一緒に屋台でも曳こうか」と言った。

TDSと東京ディズニーリゾートをしっかりと育てる。恩返しはそれしかない。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(18)社長就任

上場を目指し陣頭指揮
経理の経験生き、念願の1部

1995年6月に社長に就いた。京成電鉄との兼務時代から数えてオリエンタルランドに来て35年の歳月が流れていた。身に余る大役に責任の重さを感じたけれど「会社をつぶしてはならない」とまず心に誓った。社員を路頭に迷わせてはいけない。

第2パークのコンセプトづくりは佳境に入ろうとしていた。就任に際して「5つのプロジェクト」を発表した。舞浜エリアを都市型リゾートに育て上げる。21世紀に向けた経営方針を掲げたのだ。

具体的には第2パークの建設、舞浜駅前開発、ホテル事業への進出、新交通システムの導入、そして株式上場。どれも後に東京ディズニーリゾートと名付けたリゾート開発の重要な構成要件だ。

まず始動させたのが株式上場。社長としての最初の大きな仕事だった。90年ごろから水面下で準備を進めていた。今後、巨額の投資が見込まれる多くのプロジェクトを進めるには借入金だけではリスクが大きすぎる。何しろ第2パークだけで投資額は3千億円を超えるとみられていた。

社員持ち株会に新株を発行。94年には取引金融機関20社、スポンサー企業23社に第三者割当増資を行った。上場戦略を陣頭指揮しながら、かつて苦労した銀行回りの日々が胸によみがえった。

当座の運転資金を借りるため、私は銀行のほか全国各地の農協や信用農業協同組合連合会を行脚した。特産品を収穫した直後が資金が潤沢だと聞き、桃が終わると岡山、みかんが終わると静岡という具合だった。沖縄にも足を延ばした。

ディズニー社と東京ディズニーランド(TDL)誘致の基本契約を結んだ後、高橋社長はパークの建設資金・調達にも率先して動いた。当時、千葉県の副知事で、後に知事になられた沼田武さんは、一緒にある銀行に行ったとき、融資を渋る銀行幹部に「東京ディズニーランドの実現には県が全責任を持ちます。ご迷惑はかけません」と言い切ってくださった。

悪戦苦闘が続いた建設資金調達の救世主は日本興業銀行だった。重厚長大産業の育成に主眼を置いていた菅谷隆介副頭取が「心の産業ですね」とテーマパークに理解を示してくださり、興銀を中核として協調融資団ができた。

資金集めに苦心惨憺してきた貧乏会社が株式上場を目指しているのだ。私は東京証券取引所の第1部に上場したいと考えていた。だがハードルが高い。テーマパークを運営する会社の上場申請は過去に例がない。

96年にまず東証第2部、98年に第1部に上場する目標を立てたが、思いがけない追い風が吹いた。ヒアリングを終えた段階で東証が上場の基準を緩和したのだ。さらに増資すれば、2部を経ずに1部に上場できるという。「経理畑で良かった」。私はそう思った。いろいろな会社の数字を吟味して意味を考える習慣が身についているのだ。それが上場実現の武器になった。

96年12月11日に東証1部に上場した。新基準の適用第1号だ。初値は8850円。売り出し価格が8050円だから投資家の評価は高く、順調な滑り出しだ。「苦しい時代をぐっと我慢してくれた京成電鉄と三井不動産に恩返しができた」。私の頭に最初に浮かんだのは、そのことだった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(17)コンセプト議論

「モア ロマンティック!」
妥協は許さぬ 思わず出た言葉

海のテーマパークのコンセプトを固める議論が始まろうとしていた。ディズニーらしさを前面に押し出しながら、どうやって日本人の琴線に触れる施設を造りあげるのか。これが一番の大仕事だ。何しろ90%以上のゲストが日本人なのである。

私は1993年6月に副社長に就任していた。94年6月、社内のさまざまなセクションから5人の社員を選抜して「コンセプトチーム」を立ち上げた。ディズニー社のクリエーターたちと侃々諤々の熱い議論を交わすのが狙い。大げさに言えば日の丸を背負っている。責任は重い。

高橋政知会長は「君たちは日本代表だぞ!」と檄を飛ばした。私も「とにかく全力を尽くして頑張ってこい」とエールを送った。それから1年8カ月間にわたって濃密な議論を繰り広げた。

チームがアメリカに渡って2カ月後、高橋会長と私も合流して、ディズニー側に我々の思うところを伝えた。議論を聞いていて、私は思わず言った。「モア ロマンティック!」。ゲストが何度も来たくなる本物のテーマパークのためには妥協は許されない。必死で真剣だった。

コンセプトチームの頑張りには目を見張るものがあった。日米両社でコンセプトを具体化する中で、最も時間を費やしたのがアイコン(パークを象徴する建造物)だった。はじめは「灯台でどうか」と話を進めていた。だが米国と日本ではイメージが異なる。アメリカでは灯台は冒険の守り神。でも日本では違う。船の航行の安全を守る重要な存在だけれども、孤独、哀愁、寂寥の印象も付きまとう。ディズニー社のスタッフを日本の灯台に案内したりして、時間をかけて検討を重ねた。

その結果、アイコンは大きな水の惑星をイメージした「ディズニーシー・アクアスフィア」に決まった。高橋会長の強い意向だった。宇宙から見た地球は宝石箱のように輝き、生命力に満ちているとのリポートを読んで「パークにも生命の輝きと感動を」というのだ。ロマンティストの会長らしい発想だ。直径8メートル。インパクトのある、素晴らしいものに仕上がった。

コンセプトをパークの具体的な計画に結実させていく作業は予想通り長引いたが、楽しい仕事もあった。東京ディズニーシー・ホテルミラコスタの建設だ。初めてのパーク一体型のホテルである。開園と同時の開業を目指した。

ミラコスタは「海を眺める」を意味するイタリア語。ホテルの目の前に広がるメディテレーニアンハーバーのモデルになったのはイタリアのポルトフィーノ。私も現地に赴いて品格ある高級ホテル、スプレンディードに泊まった。とても居心地が良く、のんびりと幸せな気分に浸った。

船で海に出て町並みを眺めた。古き良き時代のイタリアのたたずまいを守る港町だ。海沿いに暮らす人々のアパートの窓辺には色とりどりのハンカチが翻っていた。漁に出て戻ってきた夫を出迎える妻が飾るのだ。こういう素晴らしい雰囲気をパークやホテルの外壁に再現しようと、趣向を凝らした。

いよいよ建設の最終案をとりまとめる段階に入って、多忙な中、私の身辺はにわかに慌ただしくなった。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(16)代案は七つの海

浦安に再び「海」を創る
日本のゲスト魅了する別世界

基本コンセプトを映画のスタジオパークにすることを前提に、1991年1月、オリエンタルランド社内に「第2パーク検討委員会」をつくり本格的な議論を始めた。

「東京ディズニーランド(TDL)に匹敵する魅力的なものにしたい。日本のゲストが満足できる、何度でも来園したくなるパークを造る」。それがメンバーの総意だ。結果、委員会が出した結論は「原点に立ち返ろう、白紙に戻し交渉をやり直そう」だった。前年から病気療養をしていた高橋政知会長が復帰したのが思い切った決断の背景だった。

91年9月、ディズニー社のフランク・ウェルズ社長を筆頭に幹部が来日し、帝国ホテルで会議を開いた。席上、高橋会長は突然の路線変更を率直に謝罪した。ディズニー社は驚き、落胆した。ウェルズ社長の表情が忘れられない。

彼はつぶやいた。「我々の努力はシシュポスの神話だったのか」。神の怒りに触れたシシュポスは罰として大きな石を山の頂上に運ぶよう命じられる。やっとの事で運び終えると石もろとも地上に突き落とされ、その苦役を何度も繰り返すのである。つまり壮大な徒労という意味だ。

第2パーク構想は一から練り直しとなった。「スタジオパークで決まりだろう」との観測が広がっていた社内には動揺が走った。追い打ちをかけるように、高橋の後任社長の森光明が心筋梗塞で急逝した。92年1月のことだ。突然の訃報に私は言葉を失った。高橋会長も衝撃を受けたが、自ら社長に復帰して陣頭指揮を執ることを決めた。

こうした混乱の中でも、ディズニー社の対応は素晴らしかった。2月にウェルズ社長が再来日して、新たな構想を提示した。「セブン・シーズ(七つの海)」。海を主役に据えたものだった。「海のテーマパーク」。高橋のほか、千葉県庁を退職して副社長に就いていた加藤康三、そして私も心を動かされた。

浦安沖の海を埋め立てて造成した土地に再び海を造るのだ。TDLとどちらに行くのか、ゲストが真剣に迷うようなパークにしたい。TDLでは体験できない別世界を創り上げるのだ。日本は海に囲まれ、ゲストに親しみやすい。「素晴らしいコンセプトになるぞ」と確信した。

ディズニー社とコンセプトやビジネス条件を詰める検討作業が始まった。92年7月、高橋社長と専務に就いていた私が渡米して臨んだ会談には、マイケル・アイズナー会長らが出席し、第2パーク構想の概要が示された。そこに今の東京ディズニーシーの根幹はすべて入っている。だが、そのアイデアに日本人の感性や日本的な文化の要素をいかに盛り込むかが大事なのだ。

そのためには、ディズニー社に日本のゲストが満足する「日本流」をより深く理解してもらうことが肝心だ。新しいパークの成功は、そこにかかっている。第2パーク構想はようやく具体的に動き始めた。アイデアをコンセプトにする議論は難航が予想された。コンセプトをパークの設計や施設に落とし込んでいくには、さらに時間と手間がかかる。「これからが本当の勝負だ」と気を引き締めた。

(オリエンタルランド会長兼CEO)