高村正彦(9)政治の師

資金集め
三木氏に学ぶ
現実主義者の河本元通産相

政治の師といえば、父の背中を除けば、やはり三木武夫元首相と河本敏夫元通産相である。初当選した1980年(昭和55年)はまだ派閥政治の真っ盛りだった。選挙戦で世話になった政策研究会(三木派)に入るのが当然と思っていた。

ところが、選挙後の最初の総会に行ったら、三木先生がいきなり「派閥解散」を宣言した。というわけで、私の三木派生活はわずか一日だった。

間もなく旗揚げした新政策研究会(河本派)に三木先生は入らなかった。河本先生が運営しやすいように気を使ったのだ。でも、後進の育成には熱心だった。

三木先生は経済が弱いと言われていた。それでますます若手に「経済は大事だ。よく勉強してくれ」とねじを巻いた。私や臼井日出男、近藤鉄雄といった面々は、三木先生が毎月開く勉強会で経済企画庁のOBや著名なエコノミストの話を聞き、景気分析などを学んだ。

もうひとつ、三木先生に教わったのは政治資金の集め方だ。「君ね、パーティーを開きなさい」。そう勧めてくれた。「米国では経営者はもちろん、学生やメイドまで100ドルずつ持ち寄って、応援したい政治家の演説を聞き、『私はこの政治家を支えているんだ』という誇りを持って家路につく。これが米国の民主主義の底力なんだ」と力説していた。

三木流のクリーンとは、広く浄財を集めることで、資金集めをしないという意味ではなかった。

経済界出身の河本先生は超合理主義者だった。ついたあだ名は「笑わん殿下」。周囲に笑顔を振りまいたりしないところは、父にとてもよく似ていた。

誰かが「こんな情報があります」と耳打ちしに来ると、三木先生は聞いたことがある話でも初耳であるかのように聞いた。河本先生は「それは知っている」と遮った。

ただ、頑固に見えて、河本先生は筋の通った話には耳を傾ける人だった。「税収の自然増は税の取りすぎだから、減税して国民に返すべきだ」と主張されていたので、「景気がよいときこそ、国の借金を返すべきです」と進言してみた。

高村君のいう通りとまではいわなかったが、それ以降は「税を取りすぎ云々」とはいわなくなった。

河本先生は戦前、軍人の横暴な振る舞いに抗議するため、反軍演説をして旧制姫路高校を退学になった折り紙つきの平和主義者だった。

87年に国際緊急援助隊法を制定する少し前のことだ。派閥で勉強会を開き、外務省からレクチャーを受けた。援助隊は文民だけで構成する、との説明だった。

「自衛隊抜きで、できるわけがない」と発言すると、外務省幹部はしどろもどろになった。

そのとき、ずっと黙って聞いていた河本先生が「ちょっといいかな」と口を開いた。平和主義者を怒らせたかな、と首をすくめていたら、あに図らんや、「自衛隊が行かずに災害に対処できるはずがない」とその幹部を叱責した。

河本さんは甘っちょろい空想的平和主義者ではなく、合理的な現実的平和主義者だった。そのことを知って、ますます尊敬した。

(自民党副総裁)

高村正彦(8)大会場よりも

地盤固めはミニ集会で
言い合った人ほど味方に

1980年(昭和55年)の衆院選で初当選を果たした自民党の同期は追加公認を含め21人だった。8カ月前の前回選の35人よりも少なかった。永田町は数がものをいう世界なので、存在感の薄い我が同期はポストがなかなか回ってこない。政務次官になるまで7年かかった。

当選後、NHKが企画した新人議員座談会への出演依頼が来た。「党の推薦ですか」と聞いたら、「高村さんが圧倒的に新鮮でしたので、こちらで選びました」とのことだった。社会党の五十嵐広三さん、社民連の菅直人さんらそうそうたる顔ぶれだった。

経験の差は明らかで、私がいちばん口数が少なかった。ところが、終了後に三木武夫先生が電話してきて「君がピカイチだったよ」といってくれた。自己評価との差にびっくりした。

2回目の選挙からはフレッシュだけでは通用しない。毎週末は山口で地盤固めに駆け回った。

重視したのはミニ集会だ。大きな会場にたくさんの聴衆を集めるハコモノ選挙は威勢はよいが、有権者との絆は深まらない。地元の秘書にむしろ10人ずつ集めてくれと頼んだ。ときには3人しか来なくても足を運んだ。次の選挙までに1カ所1時間の集会を300回はした。

山間部の集落に行くと「先代もここまで来たことはなかった」といわれた。最近は山口になかなか行けなくなったが、こんなところまで来たんだ、という記憶は思いのほか長続きするものだ。

ミニ集会で、評論家の細川隆元さんの発言を引用して批判してくる人がいた。私はこう思うと自分の言葉で反論した。すると次に同じ場所に行くと、その人が「細川さんはこう解説していたが、それでいいのでしょうか」という聞き方になっていた。言い合いになった人ほどのちに応援してくれた。自民党候補同士がしのぎを削った中選挙区の時代でも、ここまで回ったのは珍しかったと思う。

最近の衆院選は100人を超す新人が当選しては次の選挙で消えていったりする。自民党は衆参両院選で4連勝中だが、いまの若手は本当に有権者の信頼を得ているのか。心配している。

地盤固めと並行して政策の勉強にも力を入れた。外交は常識でわかる面があるが、防衛は学生時代に勉強したことがなかった。そこで国防部会によく行った。87年に初めて回ってきたポストは防衛政務次官だった。

在任中に遊漁船と自衛隊の潜水艦「なだしお」の衝突事故が起きた。間もなく新聞に「防衛庁長官、辞任へ」との記事が出た。辞任が正しい責任の取り方なのか。「記事を天下の大誤報にしましょう」と瓦力長官を励ました。西広整輝事務次官には「長官が辞めざるを得なくなったときは一緒に辞める」と息巻いた。

西広さんの答えは「では、私も辞めます」。初めてプロパーで次官になった「ミスター防衛庁」を巻き添えにはできない。黙って瓦長官の判断を尊重することにした。

それ以降、西広さんとはすっかりうち解けた。「米軍基地を見に行きませんか」と促され、政務次官で初めて米国の士官学校や基地を視察して回った。

(自民党副総裁)

素晴らしいアドバイス

メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。その魚はなんとも生きがいい。

それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」と尋ねた。

すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。

旅行者は、
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、

漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、

漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって… ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者は、まじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。
いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「20年、いやおそらく25年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、日が高くなるまでゆっくり寝て日中は釣りをしたり、子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。どうだい。すばらしいだろう。」

柴田昌治(19)排ガス浄化

規制の波乗り稼ぎ頭に

地味でも高収益

世界シェア5割

 

社名は日本ガイシだが現在、電力用碍子の売上高に占める割合は1割ほどで収支は赤字だ。一方、当社全体の売上高営業利益率は安定的に15%前後を維持し、製造業としてはかなりの高収益体質だ。その稼ぎ頭が、現在世界シェアの5割を握る自動車向け排ガス浄化用部品。社内で「ハニセラム」と呼ぶ商品群だ。

 

車体の底に取り付けるため外からは目立たない。やや専門的になるが、当社の屋台骨を支える基幹製品なので少し説明させてほしい。

 

ハニセラムは蜂の巣を意味する「ハニカム(Honeycomb)」と「セラミックス」を組み合わせた造語だ。車のエンジンとマフラーの間に取り付ける部品で筒状をしている。セラミックスを微細成形した無数の格子の内壁に触媒を塗り、排ガスが含む有害成分を化学反応させて無害化する。蜂の巣構造なのは通過する排ガスと触媒との接触面積をできるだけ増やし、浄化性能を高めるためだ。

 

ハニセラムは日本ではなく米国起点の製品だ。きっかけは1970年に成立した米改正大気浄化法、通称マスキー法である。76年以降に製造する自動車の排ガス中の窒素酸化物などの排出量を1970~71年比1割以下に抑える野心的な環境対策だった。

 

セラミックスは温度変化に強く、1千度にも達する高温の排ガス浄化にピタリはまる。当社は71年に製品開発に乗り出し、最初の納入は76年、米フォード向けだった。

 

「TestResultsExcellentandPerfect」。試行錯誤の末、米国からテレックスで届いた試作品の合格通知は、当社の未来を切り開く転換点だった。

 

今では主要な車メーカー全てが当社のハニセラムを採用する。国際的な排ガス規制強化のニュースが流れるたびに、私はひそかにほくそ笑む。

 

ハニセラムを所管する常務・セラミックス事業本部長に就いたのは88年。すでに事業は軌道に乗り始めていたが、当時の日本の製造業に共通する課題は為替対策だった。

 

85年のプラザ合意後の超円高に対応する米国での生産拠点開設が急務だった。重要工場になるのは明白だっただけに立地選びに慎重を期した。候補地は10州にまたがった。

 

私は碍子の米国工場の労使関係に散々悩まされた。古い工場や伝統的に労組の力が強い北部州は願い下げである。

 

おのずと候補を親ビジネスの南部州に絞った。さはさりながら文化や方言が独特な「深南部」への進出も躊躇した。その点、当社が選んだノースカロライナ州は「南部の北限」という特殊な地の利がある。最後の決め手は誘致にかける地元の熱意だった。

 

「ミスター・シバタ、どうしても来てほしい。時差など気にせずなんでも相談してくれ」。選定の最終段階で知事を4期務めたジム・ハントさんが名刺をもう1枚、私のポケットにねじこんできた。裏には自宅の電話番号が書かれていた。

 

それならばと、工場研修生の日本への渡航費を負担してもらった。海外拠点の運営で最も大切な人事責任者も彼に推薦してもらい、この工場には今も労組がない。

 

農業州だったノースカロライナは今や米国屈指の製造業・IT産業の拠点として発展する。企業誘致の成否は首長の能力と気迫で決まるのだ。

 

(日本ガイシ特別顧問)

 

今も心にある、実業家だった祖父の教え

私が今も心に留めている祖父の言葉があります。

派遣事業をしていたときのことです。スタッフが派遣先で悪さをして、会社の信用を落としてしまった出来事がありました。祖父に言えばなぐさめてくれるかなと思ったのですが、反対に「お前に徳が足りないから、そういうことになるのだ」と怒られました。

「臭いものには蝿がたかる。いいものには蝶が来る。お前がいいものにならないと、結局、事業はうまくいかない」と言われまして。徳を積み、人間としての器を広げていかないといい会社運営はできないのだな、と痛感しました。

 

小間裕康
1977年兵庫県生まれ。甲南大学法学部在学中の1999年コマエンタープライズを起業、家電メーカー向けビジネス・プロセス・アウトソーシングなどを展開、年商20億円まで成長させる。2009年京都大学大学院経営管理教育部に入学。10年GLM設立、14年日本初の量産EVスポーツカーの国内認証を取得、15年「トミーカイラZZ」量産開始。

 

 

柴田昌治(16)ウェルチ氏

若きカリスマと対峙

合弁解消、今でも怒り心頭

 

日本碍子は米ゼネラル・エレクトリック(GE)の要請に応じてGE傘下の碍子部門ロック社を子会社化した。出資比率は当方が60%に対して、GEも40%分の出資を残していた。毎年1回、合弁会社社長の私はコネチカット州のGE本社に呼び出された。

 

合弁会社があるボルチモアの空港に迎えの社用機が差し向けられた。だが1時間足らずの機中はいつも憂鬱だった。1981年に45歳の最年少で最高経営責任者(CEO)に就いたジャック・ウェルチ氏が待ち構えていた。

 

集められた全米の関連会社の責任者と次々と面談するので、私の面会時間は30分ほど。だがその場で彼はいつも厳しい要求を突きつけてきた。

 

「3年以内に世界でナンバー1、ナンバー2になるような事業計画を持ってこい」

 

とんでもない話である。そもそもGE側の懇請があったからこそ、当社は経営不振の会社への出資に応じたのだ。

 

CEO在職中に企業価値を50倍に増やし、米国産業史に名を残した彼の異名は「ニュートロン・ジャック」。徹底した選択と集中で、不採算事業や工場をあっという間に消滅させてしまうからだ。

 

彼自身、GEの社名が象徴する重電・電力関連事業とは縁が薄い傍流の出身。はなから碍子など電力部門は「中性子爆弾」の標的だった。

 

案の定、やがて合弁解消を言い出した。碍子事業から手を引くから「日本碍子が40%分の持ち分を買い取れ」というわけだ。

 

私は猛反発した。「買い取る?むしろカネがほしいくらいだ」。最終決着は「ゼロドル」。GEの持ち分と工場や設備をタダで引き取り、合弁を解消する運びになった。

 

思い出すと今も頭にくる。だがジャックと対峙して学んだ「選択と集中」の経営指針はのちのち参考になった。

 

ロックガイシの経営は実際に困難を極めた。

 

赴任後、2回目の84年の労使交渉も紛糾し、ストに発展した。「JapaneseUnfair」。こんなプラカードを掲げ、ワシントンの日本大使館目指してデモ行進までしてくれた。

 

大使館にはこんな経験はなかったのだろう。慌てて「どうにかしろ」と私におしかりの電話がかかってきた。

 

こちらだって自宅の窓ガラスを割られたり、車をパンクさせられたりと体を張っている。「そっちでどうにかしろ」。心の中でつぶやいた。

 

しかし私は土壇場で運に恵まれた。収益面でも苦境に立たされていたロックガイシだが、狙いを定めていた起死回生の大口案件が舞い込んだ。

 

カリフォルニア州ロサンゼルス市電力庁がカナダ国境から計画する全米最長の直流送電網の高電圧碍子を一括受注した。碍子30万個の大型契約。1個当たりの落札額は忘れもしない「36ドル90セント」。ミロク菩薩が降臨した。

 

このときばかりはロスの港にチャーター船を浮かべてシャンパンで乾杯、どんちゃん騒ぎした。

 

ボルチモアに戻ると、500人の社員全員に500ドルの小切手とクリスマス用の七面鳥を贈った。工員までボーナスを支給するのは初めて。労使紛争が収束に向かうきっかけにもなった。

 

経営者の使命とはなにか。大切な社員に「成功体験」を味わわせることに尽きるということをこのとき実感した。

 

(日本ガイシ特別顧問)

たったの1分で寝落ち?

1【4秒間】かけて鼻から息を吸う。
2【7秒間】呼吸を止める。
3【8秒間】かけて口から息を吐く。

加賀見俊夫(21)両輪動き出す

世界観の変更 首振らず
TDS施策次々 5年で開花

2001年、東京ディズニーシー(TDS)は無事、開園にこぎ着けた。アトラクション23、物販ショップ32、レストランなど飲食施設33。海をテーマに冒険とイマジネーションで彩った。時間と手間をかけて造りあげた。

「大人も楽しめるテーマパーク」を標榜し、東京ディズニーランド(TDL)と違って一部のレストランではアルコールも飲める。アトラクションやショーの質の高さはTDLと同様だが、パークの異国情緒溢れる雰囲気など、また違った魅力を打ち出した。建築物やアトラクションに最新のハイテクを駆使しているけれど、ゲストをロマンと郷愁の世界に誘うため、わざわざローテクに見せている。

ディズニー社との長きにわたるコンセプトワーク、それを実現させるための創意と工夫。プレオープンを終えた後も、グランドオープンまで細かな改善と微調整を施した。

パークを歩く時は、入り口で入場を待つゲストのみなさんの様子、出口から出るときの表情をさりげなく観察する。長年の習慣だが、ドキドキする半面、楽しくもある。ゲストの笑顔を見ると心が弾む。パークの空気を肌で感じることができるのは、この仕事の醍醐味だ。

私には施設の一つ一つに愛着がある。ヴェネツィアの運河をゴンドラに乗って周遊する「ヴェネツィアン・ゴンドラ」。ゴンドリエと呼ぶ漕ぎ手が朗々と歌を歌う。「センター・オブ・ジ・アース」はフランスのSF作家、ジュール・ヴェルヌの作品の世界が広がるアトラクションだ。TDSの中央にそびえ立つプロメテウス火山の中を地底走行車に乗って探検する。

もう少し紹介したい。「ブロードウェイ・ミュージックシアター」では、格調高い劇場体験ができる。ここでしか見られない本格的な歌と踊りのライブショーを毎日公演中だ。

開園当初、テーマパーク=TDLという確固たるイメージが定着していたことから、TDSの持つ独自の世界観がなかなか浸透しなかった。入場者数は順調だったが、思っていた以上の伸びをみせない。TDLの延長ととらえられることも多かった。世界で唯一の海をテーマにしたディズニーパークとして、時間をかけて受け入れていただく必要があった。

経営会議などの席で「TDSのコンセプトを変えたらどうか」との意見も出た。だが私は頑として首を縦に振らなかった。コンセプトの変更は逆効果だと確信していた。苦労を重ねて創ったから変えないというのではない。トップの経営判断だ。長年パークを見続けてきた私の感性が、そう訴えていた。

「大丈夫。TDLとTDSの両輪は必ず確実に回り始める」と主張した。思った結果が出せなければ会社を辞めるとまで宣言した。本気でそう考えていた。

もちろん手は打った。04年に夜のエンターテインメントを入れ替え、05年7月にはTDS開園後、初めての大型投資となる「レイジングスピリッツ」を導入した。360度ループするローラーコースターだ。そして06年、開園5周年の年に入場者数は2パークで過去最高の2581万人にのぼった。両輪が確かに回り始めた。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(20)TDS開園

天も祝福、空晴れ渡る
長く苦しい交渉、感慨無量

2001年9月4日、東京ディズニーシー(TDS)は開園の日を迎えた。「長くて曲がりくねった道だった」とつくづく思った。さまざまな感慨が浮かんでは消えた。テーマパークのコンセプトが海に決まってから開園までほぼ10年。振り返ってみると、私には10年間、公私の「私」がなかった。どうすればTDSを最高のものにできるのか。そのことがずっと頭から離れなかった。

オリエンタルランドもディズニー社も自社の利害だけを考えていたわけではない。ゲストのみなさんに喜んでいただくことを最優先に考えて果てのない、苦しい交渉を続けてきたのだ。苦労した甲斐があった。

さあ、グランドオープンだ。気持ちが高ぶる。「平常心で臨もう」と自分に言い聞かせた。いつものように朝は和食を食べて出かけた。あいにくの雨模様だった。

大きなイベントのときはいつもそうだが、パークは慌ただしかった。今日は別格のビッグイベントである。キャストたちは落ち着いて最終的な準備を進めていた。TDSは見事に仕上がっていて、美しく清潔だった。

南欧の古くて風格のある港町をイメージしたメディテレーニアンハーバー、20世紀初頭のアメリカの港町を再現したアメリカンウォーターフロントなど7つの個性豊かな港を再現したテーマポートにさまざまなアトラクションを配置してある。メーンコンセプトには「冒険とイマジネーション」を掲げた。

「東京ディズニーシーの開園を宣言いたします」。私の言葉を合図にプロメテウス火山が噴火し、花火が盛大に打ち上がった。同時にS.S.コロンビア号が汽笛を鳴らし、チャペルの鐘が一斉に鳴り響いて祝福した。

セレモニーが始まると、上空の雲が切れて、間からさあっと太陽の光が差し込んできた。雲がだんだん消えていく。まるでファンタジー映画の演出のように、陽が輝き、パークがパッと明るくなった。魔法がかかったんだと思った。

マイケル・アイズナー会長、ロイ・E・ディズニー副会長をはじめ米国ディズニー社の幹部たちも駆けつけた。第2パーク構想を巡る日米交渉が難航を重ねた際、米国側の交渉責任者で、大変なご苦労をされたフランク・ウェルズさんの姿がないのが悲しかった。彼は1994年4月、米国でヘリコプターの事故で亡くなられていた。

奇跡のような天気の回復に、アイズナー会長たちは「ウォルトが来た!」と心の中で叫んだそうだ。新しいパークの門出を祝ってディズニー社の創業者、ウォルト・ディズニーが天から祝福に降りて来たと感じたのだろう。

私には別の人が天から見守ってくれていると思えた。セレモニーの後の記者会見を終えると、ひとりで車に乗り込んだ私は高橋政知さんが眠る東京・府中市の多磨霊園に向かい、墓前にしっかりと手を合わせた。

9月4日は高橋さんの誕生日だった。偶然の導きによってこの日になったのだが、最終的には社長の私が決めた。テーマパークの仕事は感性とハートが何よりも大事なのだ。

(オリエンタルランド会長兼CEO)

加賀見俊夫(19)恩人逝く

「後は100%君に任せる」
夢の場所育てることで報恩

第2パークの名称は後に東京ディズニーシー(TDS)に決まった。力強くその建設をけん引してきた高橋政知相談役は、80代半ばにさしかかり、さすがに体力の衰えが目立ち始めた。持病の心臓病も悪くなっていた。だが、都内の病院に入院しても、TDSのことが頭から離れないようだった。

見舞いに行くと、必ず「どうだい、シーは?」と尋ねる。進み具合を説明して「大丈夫ですよ」と答えると安心したようにうなずいた。

ある晩訪ねた帰り際、高橋さんは「後は100%君に任せる。思う存分やってくれ」と笑顔で手を振った。2000年1月31日とうとう逝ってしまった。86歳だった。

通夜・葬儀は密葬だった。生前、告別式など盛大にやるな、と言っていたが、後日お別れの会を開くことを決めた。私は「高橋さん、骨身を削って造ったパークに行きましょう」と亡骸に語りかけて車を先導し舞浜に向かった。

到着したのは閉園後の東京ディズニーランド(TDL)。正面から車が入りワールドバザールを抜ける。高橋さんがよく座ってパレードを見ていたベンチ。シンデレラ城の上にあがる花火を見ている嬉しそうな笑顔。パークの中には思い出が詰まりすぎている。色々な姿を思い出して泣けてきた。

車は建設中のTDS外周を回った。海のテーマパークに夢を賭けていた高橋さんは、まだ夢の途中にあるこの場所を見ずに逝った。夜空は満天の星だった。与え続けてくれた人だった。こういう人にはもう二度と出会えない。思い出が次々に浮かんできた。

1983年9月4日、高橋さんの古希の誕生祝いを閉園後のTDLで開いた。奥様の弘子さんもお招きした。舞台は「蒸気船マークトウェイン号」。お2人はマーチングバンドの先導で船着き場に到着。特別な料理にショーでもてなした後、ご夫婦だけでアメリカ河を1周した。こういう派手な特別扱いを嫌う高橋さんだったが、はにかんだような笑顔を浮かべていた。

にこにこして楽しんでおられた弘子さんがおっしゃった。「高橋は家庭を顧みずに仕事ひと筋でした。こんなに素晴らしいものを命懸けで造ったのですね」。それを聞いて私は胸が熱くなった。

高橋さんは婿養子で弘子さんは資産家のお嬢さん。高橋さんはTDLのために、その資産を使って漁民との交渉をはじめ、さまざまな出費をまかなった。絵画や骨董品を売り、ついに渋谷の神山町の屋敷も手放した。現在のニュージーランド大使館だ。弘子さんはひと言も文句を言わなかったそうだ。高橋さんは弘子さんが入院されたとき、病室にベッドを運びこみ、泊まりこんで看病した。

私は理論武装をして、しばしば高橋さんに具申した。論争もしたが、後々考えると、たいがい高橋さんの方が正しかった。発想のスケールが大きかった。TDLの交渉がのるかそるかの正念場のとき「加賀見、仕事がなくなったら一緒に屋台でも曳こうか」と言った。

TDSと東京ディズニーリゾートをしっかりと育てる。恩返しはそれしかない。

(オリエンタルランド会長兼CEO)