江夏豊(30)時代は巡る

またいつか「選手主体」で
頑固に貫き通す個性に期待

プロ野球選手には監督やコーチになるため、現役のうちから就職活動をしている者がいる。しかし自分は指導者になりたいと思ったことはない。引退後、古巣の日本ハムや阪神で臨時コーチを務めたが、自分から頼んだわけではない。

コーチは10人なら10人の投手を平等に指導しなければいけない。自分はそういう性分ではない。その代わり「これは」と見込んだやつなら、首根っこつかまえてでもやらせて、プロで食えるくらいの投手にする自信はある。

広島で出会った大野豊が教え子の一人で、社会人から入団したものの伸び悩んでいた。同じ左腕で名前も豊、母子家庭で育ったのも同じだ。古葉竹識監督に「戦力になるの?」と聞くと「ほとんど計算していない」という。それなら自分に預けてくれないか、ということになった。

「ひどいフォームだな。もうちょっといい投げ方ができるだろう。なんなら俺と勉強するか」というと、二つ返事で「お願いします」。ただし俺は優しくない、何かあったらぶんなぐるぞと念を押したが、大野はついてきた。

二度ほど手を上げた。一度は横浜スタジアムで。キャッチボールが基本だといって徹底していたのに、忘れていた。「昨日までできとったことが、なんでできないんだ」とガツン。もう一回は神宮球場で。先発したものの、投げ方が変だと思ってみていたら、案の定肩を痛めていた。なんで隠してたんだとポカリ。

両件とも古葉監督に報告し、大野のお母さんに「大事なご子息に手を上げてしまった」と謝罪の電話を入れた。手荒なこともしたが、大野はその後広島の柱になった。

「指導者になって、江夏さんのような個性派を育ててください」とよくいわれる。けれど、それは無理な相談だ。選手が主体だった我々の時代と違い、今は管理野球、組織野球が主体だ。選手はチームの指令通りやっていればよく、個性は必要とされない。

象徴的なのが4番打者の右打ち(右打者の場合)だ。昔なら王貞治さんがレフトへちょこんと当てることなどありえなかった。もしやったらファンが怒った。今は4番が当てにいって恥とも思わない。それを「つなぎの打撃」とほめるマスコミもいけない。

プロ野球選手を計る物差しは年俸だ。3千万円の人、6千万円の人、1億円の人。昔はその違いがそのまま個性と格の違いになっていたが、今はいくらもらっても4、5千万円の平均的なプレーヤーとして平均的なプレーをしている。チーム全体、平均値の人の集団になった。寂しい話だ。

個性は技術へのこだわりから生まれる。他人から何をいわれようが、俺のフォームはこれだ、といって頑固に貫き通すところに個性が出る。人にいわれたことをすぐ取り入れる今の選手は器用だが、個性はなくなるだろう。

それでも自分はプロ野球の将来に関しては楽観的だ。時代は時計の針のように、同じところをぐるぐる回っているようなものだと思っているからだ。必ずまた、個性が求められる時代が巡ってくると信じている。

この欄の執筆の機会を与えていただいたことに感謝し、一カ月もの間読んでいただいた皆様にお礼を述べ、筆を置きたい。

(元プロ野球投手)

=おわり

江夏豊(29)大リーグ挑戦

開幕直前まで枠争う

真剣勝負で引導、相手に敬意

1984年限りで、18年の現役生活に別れを告げた。登板829試合、206勝158敗193セーブが生涯記録だ。

引退試合は85年1月、スポーツ誌「ナンバー」と、懇意にしていたライターの永谷脩さんらの協力で、東京・多摩市の一本杉公園野球場で行われた。福本豊や落合博満ら仲間が集まり、小さな球場に1万6千人のファンが来てくれた。手作りの、いい引退試合だった。

悔いはなかったが、西武で完全燃焼したわけではなかった。そこに永谷さんが大リーグ挑戦の話を持ってきた。ブルワーズがキャンプに招待する。つまり、メジャー挑戦の切符をくれるというのだ。

2月、米アリゾナの抜けるような青空の下で、生き残りをかけた戦いが始まった。メジャーからマイナー選手、総勢30人くらいの投手が集まった。そこから最終メンバー11人に絞り込まれるのだ。試合をやるたびに、ロッカーがお通夜みたいに沈んだ。打たれた投手がカットされていく。

海の向こうは見る物、聞く物すべてが新しかった。監督、コーチは日本のように選手を怒鳴ったりせず、練習でも細かいことは言わなかった。

投手と内野陣の連携プレーの練習のなかで、無死満塁でのけん制があった。すると、サイ・ヤング賞にも輝いたローリー・フィンガースがすたすたとマウンドを降りていく。そして言うことには「俺はけん制の練習なんかしない。全部三振を取るから」。格好いいなあと思った。これが日本なら「造反」といわれて大問題になる。ところ変われば野球も変わるものだ。

メジャーを目指す打者たちのスイングはすごかった。3Aクラスの打者でもパワーはメジャー級だ。18年のプロ生活で身につけたテクニックと駆け引きで、切っ先をかわし、開幕直前まで生き残った。最後は左腕用の1枠を2人で争うことになった。

相手はテッド・ヒゲラ。36歳の自分より9歳若く、球も速かった。最終的に球団はヒゲラをとった。ゼネラルマネジャーに呼ばれて行くと「お疲れさん。もう君のチャレンジは終わった」。マイナーから挑戦するならそれもよし、指導者として勉強するなら支援するといってくれたが、自分はワンチャンスに賭けてきたのだ、といって断った。

踏ん切りをつけてくれたのはレジー・ジャクソンに打たれた中前安打だった。最後の登板となったエンゼルス戦で、レジーと対戦した。通算563本塁打、ワールドシリーズに強く「ミスター・オクトーバー」と呼ばれた大打者で、日本でいえば王貞治さんみたいな存在だ。

左打席に立ったレジーは本塁打狙いでくるのかと思ったら、ミートに徹し左中間寄りにはじき返した。

向こうのマスコミの取材で「対戦してみたい打者」と話していたのを、彼は知っていたのだろう。遊びでなく、こいつは本気でアメリカまで夢を追いかけてきた。その夢を砕くなら、俺のバットで砕いてやろうというスイングだった。完全な真剣勝負で、引導を渡してくれた。

小憎らしいことに、レジーはそのバットを差し出し「おまえの夢はこれで吹っ飛んだんだ。持って帰れよ」。一度も会ったことがなかった男が、一番気持ちをわかってくれていた。そのバットは今も、自宅に飾ってある。

(元プロ野球投手)

 

江夏豊(28)管理野球

西武へ、初の2軍降格
固い規律に居場所失う

日本ハム・大沢啓二監督は1983年限りでユニホームを脱ぎ、フロント入りすることになった。シーズン終了のあいさつで自宅を訪ねると「おお、ちょうどよかった」と言って、とんでもないことを切り出した。

「おまえを広島から取ったのは俺だ。俺が辞めるんだから、おまえも辞めろ」。変な理屈で、トレードに出された。大沢さんは、江夏がいると次の植村義信監督がやりづらい、と判断したのだろう。

大沢さんが世話してくれた移籍先はなんと西武。弱いチームにいて強いチームをやっつけることを生きがいにしていた自分にとって、黄金時代を築きつつあった西武は行きたくない球団の一つだった。

西武は固い規律の下に動いていた。いわゆる管理野球。広岡達朗監督の下、三十歳を越えたおっさんたちが、学生野球の選手みたいにコチコチになってやっている。

そもそも、西武には森繁和という抑えがいた。自分を取ったのはよそに行かせたくなかったからなのかどうか、わけがわからなかった。シーズン前「立派な抑えがいるんだから、自分は中継ぎでいい」と首脳陣に言ったが、どっちにしても出番はなかった。

広岡監督は玄米や自然食を勧めるなど、食事から管理していたものの、自身は痛風の持病があった。ある食事会で「監督はこういうものを食べているのになんで痛風なの」と聞いてしまった。自分も痛風持ちだったので、何気なく尋ねたのだが、監督は気分を害し、席を立ってしまった。

それが関係したわけでもあるまいが、出番は減っていった。移動のために羽田空港に行くと、遠征メンバーからはずされていた。84年7月26日、プロ入り後初の2軍降格。1軍公式戦の登板は7月12日の南海(現ソフトバンク)戦が最後となった。

2軍では岡田悦哉監督らが「我慢しろよ」となぐさめてくれた。1軍復帰のためには2軍戦で投げなくては、と言ってくれたが、もう投げたくなかった。

シーズンも終わりに近づいたころ、岡田さんに「おまえもかわいそうだのう」と言われた。主力級の選手が2軍に落ちた場合、普通は10日から2週間に一度、調子はどうか、と1軍から打診がある。なのに江夏のことは一度も聞かれなかった、と岡田さん。

1軍復帰の見込みなど、最初からなかったのだ。もう終わりだ。最後に2軍のシート打撃に登板した。若手を相手に5回を投げて、どん詰まりの中前打1本に抑えた。我ながらほれぼれするような球だった。これだけの球が放れるんだから、もういいや、と思った。もしコンコン打たれていたら、まだ辞められない、となっていただろう。

現役最後の夢は1000試合登板だった。当時の最多登板記録は米田哲也さんの949試合。今年、中日の岩瀬仁紀が954と更新したものの、1000試合は前人未到の領域であり、自分が唯一こだわった個人記録だった。

それもはかない夢となったけれど、未練はなかった。自分がプロに入ったころは村山実さんや、山内一弘さんら看板選手がでんと構えていて、監督など何もいわなかった。選手が主体の世界だった。

そういうプロ野球でなくなった今、もう自分のような選手のいる場所はないのだと悟った。

(元プロ野球投手)

 

江夏豊(27)父を求めて

大沢監督の器にほれ込む
打たれても「使った俺が悪い」

3年間プレーした広島を離れ、1981年、日本ハムに移籍した。前後期制を取っていたパ・リーグで、日本ハムは優勝を争いながら、あと一歩のところで涙を飲んでいた。終盤の競り合いに弱く、1点差ゲームを落としていた。弱点克服の切り札として大沢啓二監督に呼ばれたのだった。

最初はなんてひどい監督なのだろうと思った。べらんめえ調で口が悪く、手も早い。野球の技術を指導しているところなどみたことがない。しかし選手たちは親分と呼んで、案外慕っている。投げ続けているうちに、そのわけがわかってきた。

シーズン当初は調子があがらず、よく打たれた。それでも大沢監督は一切責めず、マスコミに愚痴をこぼすこともなかった。「使った俺が悪い」とかばい続けてくれた。

大沢さんが人に愛される理由。それを目の当たりにしたのは関西遠征の最終日だった。大阪球場での試合前。たまたまロッカーを通りがかると、打撃投手ら裏方さんが3人くらいいて、大沢さんが「あしたは東京に帰る。一週間ご苦労さんだった」と言い、みんなに小遣いを渡していた。これで子供さんに何か買ってやれ、奥さんに甘いものでも買ってやれ、と。

キャンプの終わりなどに裏方さんを球団や選手会が慰労することはあっても、監督個人がやっているのはみたことがなかった。

こんなに温かい人だったんだと思うと、体の芯が、かーっと熱くなった。大沢さんというおやじがいて、選手が父と慕う家庭。その温かさは母子家庭で暮らした自分が求め続けていたものだった。俺にもこんな父親がいたらなあ、と思ううちに、大沢啓二という人間に完全にほれ込んでいた。

キャンプに初めて参加したときは、えらいチームにきてしまったなあと思った。中学生かという小兵ばかりで、フリー打撃で外野に飛ばすのは野村克也監督解任事件で、一緒に南海(現ソフトバンク)から出た柏原純一だけ。前年まで強打の広島にいただけに、落差が大きかった。

そんな打線もソレイタ、クルーズの両外国人が合流すると格好がついた。自分も次第に調子を上げ、25セーブでタイトルを獲得した。前後期制の後期、日本ハムは優勝した。リーグ優勝をかけたプレーオフでは3勝1敗1分けで前期優勝のロッテを下した。

巨人との日本シリーズは2勝4敗で敗れたものの、リーグ優勝のビールかけで、一斗だるに尻を突っ込み、選手の誰よりもはしゃいでいた大沢さんの姿が忘れられない。

大事な試合になると、大沢さんはマウンドで「しっかり抑えろよ」「頑張れよ」と言った。自分はマウンドでごちゃごちゃ言われるのが大嫌い。「そんなこと言うなら、自分で放れよ」と何度もけんかしたものだった。

しかし、あれも大沢さんの勝利への執念の裏返しだった。この優勝で「江夏といえば優勝請負人」の呼び名が定着した。

パ・リーグの最優秀選手に選ばれた。広島時代の79年に続くもので、初の両リーグ受賞とマスコミは騒いだ。しかし、自分は何とも思わなかった。25勝で401奪三振の記録を作った阪神の2年目でさえ取れなかったMVPだ。人の投票で決まる賞には価値が見いだせなかった。

(元プロ野球投手)

JALを「V字回復」させた元機長の操縦術

評論家社員を変えた操縦術

がらんとしたその一室は、JAL社内で、「大部屋」と呼ばれている。壁には稲盛和夫の筆による「謙虚にして驕らず。さらに努力を」の額があり、社長や役員の机が並ぶ。ここに、土日になると、社長の植木義晴がひとりで現れては、机上の書類をシュレッダーにかけているという。わざわざ書類の裁断のために出社するのかと問うと、植木は煙に巻くように笑う。「1週間分の書類を、最低でも10分の1まで減らしてます。捨ててニンマリして帰る。これがうれしいんですわ」

この地味な作業が、実はJALの変貌と無縁ではない。

2010年の会社更生法適用後、2年で営業利益2,000億円のV字回復を遂げると、当時の会長だった稲盛が社長に大抜擢したのが植木だった。パイロット歴35年の元機長。「57歳で役員に就任するまで、財務三表を見たことがなかった」という遅咲きの経営者である。それでも彼が、「いまからでも勝負できる」と思ったのは、フライトと地上の組織の操縦法に違いがあると気づいたからだ。

まず、「時間の観念」である。

「地上では、最高の結果を出すためにどれだけの時間が必要かを考えがちですが、パイロットは違います。限られた時間内にどこまでのことができるか。Time is moneyではなく、life。命そのものなのです。例えば、フライト中にトラブルが起きると、状況を認識して判断し、優先順位をつけて実行する。NASAの調査では平均2〜3分で遂行するそうですが、その間にも状況は変わり、判断を変えなければならない。最初にこう決めたからといって変化に対応できないと、事故に至るのです」

判断する際、知識は多いほどプラスになると思われがちだが、植木はその「足し算」型の考え方が危険につながると言う。「離陸をした直後にエンジントラブルが起きたとします。そのとき、知識を詰め込んだ人は、答えを知識の箱から探し出そうとする。でも、状況を打開できる知識を探し出せなかったら、どうなります?何万という知識を頭に詰め込んでおくことは必要です。しかし、操縦席で役に立つのは、それを千くらいに絞り込み、知識を“知恵”に変えておくことなのです。知恵はどんな場面にも応用できるからです」

経営判断も然り。書類の知識を頭の中に叩き込むと、知恵という「公式」をつくり上げ、彼はシュレッダーに情報を捨てるのだ。

人財養成も、空と地上では違った。年2回の役員面談で、植木が「明日、きみが入院したら、誰が役員をやる?」と聞くと、当初は「それは社長がお決めになるでしょう」という返事が返ってきた。
「それ、違うやろ」。空の常識では、機長が気を失った場合まで想定してチームを育成する。それが、仕事の責任なのだ。だから彼は、「いつ何が起きても、自分の代わりを務められる人財を育てておくのが務めだよ」と諭す。

責任と覚悟。植木が使うキーワードである。元機長と稲盛の共通項があるとしたら、そこだろう。JALの再建を任された稲盛が、初めて会社にやってきた日、稲盛は全役員を前に、「この数字に責任をもっているのは誰だ?」と聞いた。このとき、誰も手を挙げないでいると、「だからダメなんだ!」と雷を落としたという。植木は、「それが当時のJALでした」と振り返る。「評論家や批評家のような社員はたくさんいるが、当事者意識がない。会社のことを『自分事』として捉え、『自分が会社を支えているんだ』という意識に改革することが第一歩でした。まずは、自分が中心になって、自分で考えてほしい、と」

また、植木は「事業創造戦略部」を設立した。「いまある数字をよくしたいと思うと、どうしてもいまのポジションを守ろうとする。しかし、挑戦していかないと、組織は続かなくなる」と言う。

彼は集めた社員たちに指示した。「10年20年先のメシのタネを探してきてくれ。その代わり、足元はまったく見なくていい」

しばらくすると、「植木さん、見てもらえませんか」と、社長を会議室に呼んで、アイデアを説明したがる社員が出てきた。「全員経営」のの浸透なのだが、植木はこう笑う。
「実はいつの間にか稲盛さんが頭で描いた通りのことを僕はやっているのかもしれない。いつも見抜かれていて、少し悔しいですけどね(笑)」

植木義晴(うえきよしはる):1952年京都府出身。父親は俳優の片岡千恵蔵。慶應義塾大学法学部を中退し、航空大学校卒。75年に日本航空にパイロットとして入社。94年に機長。2008年にジェイエアに出向後、日本航空の執行役員運航本部長に就任。経営破綻後の12年にJALとしては初のパイロット出身の社長に就任した。

藤吉雅春 = 文

江夏豊(26)21球その後

広島初の日本一に貢献
次の世代思い、移籍受け入れ

九回裏1死満塁。近鉄の打者、石渡茂はスクイズをしてくるはずだ。問題はいつやってくるか。全神経を集中して、石渡を観察した。ふだんは右目で打者を、左目で捕手を見て放っていたが、ここは両目で石渡だけを見た。

1ストライクからの2球目。石渡のバットが一瞬下がるのがみえた。来た。スクイズだ。100分の1秒というほどの判断で、外角高めにはずした。飛びつくようにして出したバットが空を切り、突っ込んできた走者藤瀬史朗はタッチアウト。なお二、三塁とピンチは続いていたが、最後は石渡を空振り三振に仕留めた。

1979年11月4日、広島が初の日本一に輝いた瞬間だった。

九回に投じた球数は21。無死満塁からの脱出劇をノンフィクションライターの山際淳司さんが深掘りし、「江夏の21球」として世に広まった。

スクイズをはずした球はカーブだった。普通、ピッチドアウトするなら直球であり、カーブはありえない。ましてや、とっさの判断でボール球にするなど、ちょっとでも野球をかじった人には人間業と思えないはずだ。

近鉄サイドや評論家が偶然はずれただけ、というのも無理はなかった。しかしあれは100%、自分の意思ではずした。

ただ、あの試合、どっちに転んでもおかしくなかったのは間違いない。近鉄の西本幸雄監督とすれば、江夏攻略にはこれしかないというシナリオ通りになっていた。塁に出たら藤瀬らの足でかき回し、決定機には前年の首位打者で、左投手に強い佐々木恭介。

その佐々木が、神様のちょっとしたいたずらで打てなかった。打てるとすればカウントを取りに行った2球目だったが、手を出さなかった。紙一重の勝負だった。

他人の作ったピンチならともかく、自分でまいた種だったということもある。野球の神様が、たまたま自分にほほ笑んでくれたのだ。

初めての日本一に酔いしれたが、個人的に納得できないことが一つ残った。九回のピンチにブルペンで、池谷公二郎らを準備させた古葉竹識監督のことだ。

大阪球場は室内にもブルペンがあるのだから、わざわざ見えるところでやらせなくてもいい。あえて屋外でやらせたのは古葉監督のあてつけだったと、自分は受け止めた。

監督を一回ぎゃふんと言わせなくては……。翌80年の開幕戦で、ある作戦を決行した。「去年のシリーズの最後の試合に関して納得できないことがある。もう野球をする気はないから、帰らせてくれ」。監督が一番困るのは自分がベンチに入らないことだ。

慌てた古葉さん、開幕日に来られたお偉いさんたちとの面会を全部キャンセルし、延々と釈明した。自分としてはちょっと困らせて一言謝罪があれば、それで十分だった。

広島のユニホームはこの年が最後になった。再び近鉄を破り、連続の日本一となったあと、日本ハムへ移籍した。

古葉体制もやがては終わり、山本浩二らの時代がくるはずだった。そのときに自分がいてはやりづらいだろうと、自分でもわかっていた。

「今ならどこでも通用する。力が落ちたら、どうにもならんぞ」という古葉さんの移籍の薦めも素直に聞けた。選手を大人扱いしてくれ、優勝の味を教えてくれた古葉さんには、今も感謝の気持ちしかない。

(元プロ野球投手)

 

江夏豊(25)21球

無死満塁、奇跡の脱出劇
日本シリーズ決戦で「最高傑作」

1979(昭和54)年、近鉄との日本シリーズに臨んだ広島だが、大阪球場での1、2戦を落とし、苦しいスタートとなった。第2戦では七回のピンチに、山根和夫を救援した自分が打たれて負けた。

地元広島に帰って、カープが息を吹き返す。第3戦は自分が最後を締めて、逃げ切り。第4戦、第5戦は福士明夫、山根が完投、完封で制した。

王手をかけ、第6戦からの舞台は再び大阪に移った。死んだと聞かされていたおやじと会ったのはこのときだ。第6戦で広島は敗れて3勝3敗となり、第7戦の九回「江夏の21球」へとつながっていく。

個人的に大変なことがあったのに、よく投げられたものだ、と思われるかもしれない。おやじと会って、心中穏やかでない部分があったのは確かだ。しかし、自分は人より鈍いのか、ずぶといのか、いったんユニホームを着てグラウンドに出れば、ほかの事をきれいさっぱり忘れられた。

交際していた女性がキャンプ地まで追いかけてきて、死ぬの生きるのという修羅場になったときも、グラウンドでは野球に集中できた。我ながら得な性格だ。

迎えた第7戦。4-3とリードして迎えた七回途中から登板した。七回、八回と抑え、迎えた九回。先頭の羽田耕一に初球を中前に運ばれた。近鉄としては1点負けている状況で最終回。この場合、先頭打者は簡単にアウトになってはいけないから、ボールをみてくるはず。それが自分が育ったセ・リーグの常識だったが、野球の粗いパ・リーグでは通用しない。それをうっかり忘れていた。

代走が出て二盗されたときに悪送球、走者は三塁へ。四球と敬遠で無死満塁となった。あと三つアウトをとれば日本一という状況が一転、逆転サヨナラ負けのピンチだ。

絶体絶命のなか、怒りで我を失うようなことが起きた。広島のベンチが、ブルペンに池谷公二郎と北別府学を走らせたのだ。この期に及んで、俺以外に誰が投げるというのか。ぶち切れそうになった。

その心をつなぎとめてくれたのはマウンドに寄ってきた衣笠祥雄の一言だった。「おまえがやめるんなら、おれも一緒にやめるから」。

ここで誰かにマウンドを譲る以上の屈辱はない。なんなら、今ここでユニホームを脱いでやる、という気持ちを衣笠はわかってくれていた。それに自分は救われた。

近鉄は佐々木恭介を代打に送ってきた。2ストライク1ボールと追い込んでからの4球目はファウル。このあとの2球の配球は自分の投球術の集大成となる「最高傑作」だった。5球目は膝元へのボールになる直球。決め球への布石だった。見逃し方を見て、同じコースから曲がってボールになるカーブを放れば、絶対振ると確信した。空振り三振で、まず1死。

佐々木の小細工はありえず、あれこれ考えなくてもよかった。問題は次の石渡茂だ。

小細工ができ、スクイズが考えられた。ふと、近鉄の三塁コーチャーの仰木彬さんを見た。仰木さんとは個人的にも親しく、性格は知っている。マウンドからにらむと、いつもにやっと笑っていた仰木さんが、目をそらした。間違いない。スクイズを仕掛けてくる。しかし、どのカウントか……。駆け引きが始まった。

(元プロ野球投手)

 

斉藤惇(28)山一自主廃業

問題明らかだったが・・・
欠けていた決断力 破綻招く

連載も終わりに近づいた。1人の証券人として、やはり山一証券のことは書いておきたい。私が野村証券の顧問に残っていた1997年5月~98年10月、日本の金融の風景が大きく変わった。なかでも忘れられないのが山一の経営破綻である。

97年11月24日、山一は旧大蔵省に営業休止を届け出た。いわゆる、自主廃業だ。「社員は悪くありません」と号泣した野沢正平社長の記者会見をご記憶の方は、今も少なくないだろう。

「とうとう、この時が来てしまった」。会見をテレビで見た時の、私の率直な感想だ。四大証券の一角を占めていた山一の突然の破綻劇は、世間的には衝撃的なできごとだったに違いない。しかし、私のように証券会社の経営にかかわった経験を持つ者にとって、山一は常に不穏な気配が漂う存在だった。

その根源は「飛ばし」だった。顧客である企業の財テクの損失を特別目的会社などに飛ばして表面化を避ける取引に、山一は長らく手を染めていた。いつかは株価が上がり損失も消えるはずとの甘い見通しが外れ、隠していた損失を本体で処理せざるを得なくなったため、経営が行きづまったのだ。

飛ばしの概要は破綻の記者会見で初めて公表されたが、その存在は折にふれささやかれていた。11月3日に準大手の三洋証券が倒産すると、金融機関全体への市場の見方が厳しくなった。特に、飛ばしの噂があった山一は短期の資金調達が難しくなった。決算や財務をみた経験もある私のところには、他の証券会社の資金繰りに関する情報も入っていた。

山一の短期の調達レートはぐんぐん上がっていた。銀行が資金を出し渋っているとの噂も耳にした。「大丈夫か、君のところお金がとれていないんじゃないのか」。業界の集まりを通じて懇意になった山一の企画担当役員にそう問いただした。人柄がよく紳士然としていた彼は、もはや肯定も否定もせず、ほほ笑みを浮かべるだけだった。

生き馬の目を抜く証券界にあって、彼に限らず山一は穏やかで親切な人が多かった。商売を離れれば良いひとたちだったのだ。

1897年(明治30年)に兜町に誕生した山一は、証券界の名門中の名門だ。1925年(大正14年)に大阪で創業した野村は、長らく「関西の成り上がり」扱いだったと聞く。私が入社した63年もそういった雰囲気は残っていた。最初に赴任した長崎では、近くの山一の支店の看板がとりわけ派手だったことをよく覚えている。

山一は65年不況で破綻し、日銀の特別融資で救済された。旧日本興業銀行などと近かった当時の山一は、金融システムの中で重要な役割を負っていたのだ。時代が昭和から平成に変わり業績の面で見劣りするようになっても、自分たちは特別という意識があったのかもしれない。給料が野村と同水準だと知り「それじゃ、もたないだろう」と懇意の山一役員に忠告したことがある。「そうだと思う」と彼は答えた。

問題の所在も、とるべき手だても明らかだった。運命に導かれるように破綻していった山一に欠けていたものは、ただ一つ。決断するということではなかったか。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(27)ライフワーク

米国で知った企業統治、論文執筆後
20年構想が実現

2015年6月、日本取引所グループの最高経営責任者(CEO)を退任した。最後の定例記者会見で「8年間をふり返ってどうですか」と質問されたので、「コーポレートガバナンス(企業統治)の改革が前進してうれしかった」と答えた。

会見場にいた兜クラブの若い記者の方々は、アベノミクス(安倍晋三首相の経済政策)の一環として東証が15年に採用した「コーポレートガバナンス・コード」のことを思い浮かべたようだ。直接にはその通りだが、言外の意味はもう少し深い。

私にとって「企業統治」はライフワークと言えるテーマだ。その源流は野村証券でのニューヨーク勤務にさかのぼる。最初に赴任していた1974年、米国で「エリサ法」と呼ばれる法律ができた。年金の運用者に対して委託者のために最善を尽くすことを義務づけ、怠ければ罰則を科すという内容だ。

このエリサ法が、米国の株式市場と経済の歯車を好転させる起点となった。静かに株式を買っているだけだった年金が、投資先企業の経営や戦略に注文をつけ始めたのだ。運用を怠けるのは法律違反だから、ファンドマネジャーが投資先の企業価値を上げるのに必死になったのだ。

年金の圧力を受けた企業が不採算部門を切り離したことにより、産業の新陳代謝が進んだ。無駄をそぎ落とした企業の株価は上昇。資産効果で個人の懐が潤い、消費主導で経済は活性化--。90年代の米国繁栄の構図は詳しく説明するまでもない。

日本の90年代はバブル崩壊で経済が停滞し、株価は下がり続けていた。野村の専務になっていた私は米国との差を縮めるにはどうしたら良いかと思案した。出した答えがガバナンス改革だ。株式市場の圧力を使って、企業の経営や戦略を変える手法を日本に広めようと考えた。

94年4月、経団連の関係団体が米国にガバナンス視察団を出した際は、15人ほどのグループの団長も務めた。実際に米企業の株主総会ものぞいてみた。企業側と株主が経営について和気あいあいと議論する距離の近さが、ひじょうに印象的だった。

同じ年には法務専門誌「旬刊商事法務」の7月5日号に「日本のコーポレート・ガバナンス過去・現在・未来」という論文も発表した。経営に外部の視線を取り入れることは企業を鍛え、経済全体のためになるという信念は当時からまったく揺るがない。

あの頃、日本がガバナンス改革に本気になっていれば、日本の経済は今より強く、企業もたくましくなっていたはずだ。野村は隆々たるグローバル金融機関になっていたかもしれない。破綻した山一証券の運命も違ったものになっていたのではないか。

20年余りの時を経て東証がガバナンス・コードを取り入れ、そのトップにいることができたのは、市場に関わる者として感無量であり、幸せだった。記者会見では「大変ラッキーです」などと、珍しく軽口も口をついて出てしまった。

退任に際して、社員が送別会を開いてくれた。私の在職時の写真などを集めた記念アルバムをいただいた。表紙には毛筆で「卒業」。麻生太郎金融担当相が書いてくださったものだった。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)

斉藤惇(26)大証と経営統合

決裂寸前の交渉を前進
オールジャパンで世界に挑戦

グローバル市場の中で証券取引所はナショナルな存在である。お金の流れは国境を越えるが、それを受け止める証取という器は一国の代表として生存競争をくり広げている。複数の主要マーケットが並び立つ米国はむしろ例外の国だ。欧州やアジアでは再編が進み、おおむね1つの国に代表的な証取は1つしかない。

「時差もない日本の中で、東京だ大阪だと言っている場合ではない」と自然と思うようになった。大阪証券取引所の米田道生社長も同じような考えを持っている、と教えてくれる人がいた。

2011年2月、野村証券が主催するセミナーで米田さんと顔を合わせた。どちらが最初に声をかけたのかは忘れたが、私が「米田さんと話すことあるよね?」と冗談めかして言ったのは覚えている。まずは食事でもということになり、3月20日に京都での会食が設定された。

3月10日に日本経済新聞が朝刊1面の横見出しで「東証・大証統合協議へ」とすっぱ抜いた。その日の朝、自宅を出ると門の前で記者さんたちがお待ちかねだった。「報道は事実か」とか「東証の上場計画はどうなるのか」など様々な質問を受けた。

私は「似たようなところは1つでいいんじゃないか」と肯定的にコメントした。米田さんも「3カ月以内に基本合意したい」と踏み込み、話がとんとん拍子に進むかと思われた。しかし報道翌日の3月11日、日本を悲劇が襲った。東日本大震災である。我々も非常時の体制をとったため、京都での会食は延期せざるをえなかった。

仕切り直しの会合は4月7日、名古屋だった。名古屋を選んだのは東京と大阪の中間という理由だったが、東証には「地理的には大阪寄りだ」などと言う人もいて、苦笑せざるをえなかった。

名古屋会合の後、双方でプロジェクトチームを立ち上げて交渉に入った。統合比率など細かい条件もさることながら、私が最も気を使ったのは「ぜんぶ東京に集中してしまう」という大証の警戒感を解くことだった。

持ち株会社をつくったうえで大証は大阪に残し、東証の先物やオプション取引も大証に移管。その代わり、現物株式の市場は東証に一本化。こんなすみ分けを前面に出すことで、何度も決裂寸前までいった交渉を前に進めた。

経営トップの肩書を決めるのも難しかった。私と米田さんのどちらかが「社長」、どちらかが「副社長」になると、統合後の主従関係がにじみ出てしまう。そこで、どちらの名称も使わないこととし、私が「最高経営責任者(CEO)」を名のり、米田さんには「最高執行責任者(COO)」に就任していただくこととした。役員フロアでも並びの部屋を構えた。

それでも、私は少し傲慢な存在に映っていたかもしれない。組織の長としては、東証のために有利な条件を勝ち取らなければならなかった。東証の上場計画を期待していた中小証券の経営者の方々に、納得していただく仕組みとする必要もあった。

米田さんは、統合後は社内融和に率先して動いてくれた。世界に挑戦するにはオールジャパンでなければいけない。そんな問題意識は共有できていたのだと思う。

(前・日本取引所グループ最高経営責任者)